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2022年5月の同朋の会

2023年は親鸞聖人の誕生850年、立教開宗800年です。その慶讃法要のテーマについて考えていきました。


  南無阿弥陀仏
  人と生まれたことの意味をたずねていこう


来年の慶讃法要のテーマは以前のテーマとは違い、「南無阿弥陀仏」が掲げられています。
「南無阿弥陀仏」、念仏は真宗門徒にとって最も尊い、御本尊です。今までの慶讃法要のテーマの言葉の中には用いられていませんでしたが、真宗門徒にとっては念仏は言うまでもなく根本であります。だからかつてのテーマにはそれぞれ先立って、明言されていないだけで「南無阿弥陀仏」があったのだと考えられます。

なぜ今まで明言されなかったことが言及されたのでしょうか。この日、住職は昨今の真宗門徒が「南無阿弥陀仏」さえも私物化していないかという危機感から明言されたんだという考えを挙げました。

また住職は全ての娑婆の出来事、我欲と我欲のぶつかり合う争いの絶えない世界の出来事に先立って、阿弥陀如来の大悲「南無阿弥陀仏」があるのではないかと言いました。
私に先立って「南無阿弥陀仏」がある。「南無阿弥陀仏」が私と浄土をつなぐ。念仏があってはじめて無明闇の中にいる私に気付させていただく。如来からの大悲に引き当てられて、はじめて自分を感じる。念仏との出遇いのよって私たち衆生ははじめて娑婆に生きる自分に気付かされるのです。

しかしその「南無阿弥陀仏」をも自分のものとして取り込んでしまいうるのが私たち娑婆に生きる存在です。かつての慶讃法要のとき、もっと遡れば親鸞聖人が生きていた時代も念仏者は自分が念仏を私物化する問題を抱えていたのだろうと思います。

人間は答えを握りたい存在です。答えを握り、自分が正義という立場に立ったとき、「正す」という行為を以て、誰かを傷つけ、害を為します。
念仏はその様な在り方の自分に気付かせて下さいます。しかし念仏と出遇えば全て解決ということではございません。そして新しい自分がはじまる訳でもございません。今まで通りの自分なんだけれども、傷付け傷付け合う世界にいま存在している自分に気付かされて生きていく。それが念仏を根本とする生き方なのではないかなと感じております。あくまで私たちは阿弥陀如来によって気付かされていく存在です。自分で気付いたと履き違えたらそれこそ念仏の私物化です。答えを握り、過ちを犯す第一歩です。

今回、親鸞聖人生誕850年、立教開宗800年の慶讃法要のテーマに「南無阿弥陀仏」が明言さえたのは、やはり私も念仏者の念仏の私物化に対する危機感からと、念仏を根本とする生活の確認の思いが込められていると感じます。


(筆 ・ 釈裕香)

2022年4月の同朋の会

同朋新聞5月号題材に、南無阿弥陀仏を考えていきました。

門徒さんから以下の言葉を頂きました。

何が何だか意味は分からないけど南無阿弥陀仏

痛烈一閃、この言葉こそ真宗を表していると受け止めました。
意味や由来、解釈は学びたい人が、出来るときに、余裕がある時に学べればよいのです。
深く学ばないと救われないということは一切ありません。いつでもどこでも誰にでも、お念仏の仏道は開かれるのです。それが如来様に身を任せる他力の仏道なのです。念仏を称えれば救われる生き方なのです。


(筆 ・ 釈裕香)

2022年3月の同朋の会

慙愧(ざんき)、内に恥じ、天に恥ず。自らに恥じ、他に恥じることです。
かつてお釈迦さまは涅槃経において無慙愧の人、慚愧の心の無い人は救われないとおっしゃりました。そして如何に救われ難き存在でも慙愧の心を起こせば救われるとおっしゃりました。

観無量寿経でお馴染みの阿闍世王は、父殺しを代表とする多くの罪を自覚し、病に倒れ苦悩してました。
お釈迦さまへ最期の布施を行った純陀は自らが仏身を傷付けたと罪悪感に苛まれていました。
しかし両者、罪を自覚し、悔いている時点で既に如来によって救われる存在になっていたのです。涅槃経では罪人が救われていく様が描かれています。

罪人は罪を自覚してこそ罪人たりえる。自らを省みない存在は畜生と変わらないという言葉もあります。無慚愧という強い言葉は他人に向くのではなくどこまでも自らに向かっていく言葉なのです。

世間はそれぞれの人が自分の思い通りを通そうして傷付け合っています。煩悩が渦巻き、我欲がぶつかり合っています。そのような世界、世間で生きている自らの在り様を、お念仏のはたらきに照らされて、省みるところに悪人は救われていくのです。


朝ドラのカムカムエブリバディからの言葉の紹介がありました。

暗闇でしか見えぬものがある。暗闇でしか聞こえぬ歌がある。

住職はこの言葉に感激しておりました。我々人間は、無明のなか、迷いの世界で生きております。相対で、ものともの、人と人とをそれぞれの価値観で比べる世界です。その世界で迷い傷付け合いながら生きております。そのような暗闇の中だからこそ、お念仏によって、暗闇が暗闇だと気付ける光に照らされ、南無阿弥陀仏が聞こえてくるのです。


(筆 ・ 釈裕香)

2022年2月の同朋の会

久しぶりということもあり、真宗大谷派の宗旨、教えを改めて確認しました。
真宗は南無阿弥陀仏に生きる仏道です。南無阿弥陀仏は念仏のことです。阿弥陀仏に南無する、つまり阿弥陀仏に帰依する言(ことば)であります。

念仏を称えることで、阿弥陀仏によって、真実の世界に導くと約束されております。そして念仏はそのおはたらきと同時に、身の事実、この身が生きている世界の様相を気付かせて下さいます。
阿弥陀の別の言い方は、無量光、無量寿です。無量とは量る必要の無いという意味です。比べる必要の無いということです。

大悲から阿弥陀如来が苦しみ傷つけあう我々を哀愍して垂れたお念仏は一切衆生、生きとし生きるものを取りこぼさず、例外なくお救い下さり、相対的なあり方、生き方で苦しむ私たちを照らしてくださるのです。


(筆 ・ 釈裕香)