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2024年5月の同朋の会

 今回は『正信偈』の冒頭2句、末の2句を確かめていきました。
『正信偈』は


帰命無量寿如来 南無不可思議光


 という冒頭から始まります。「帰命」は生活の根本とするという意味です。「無量寿如来」ははかりしれないいのちの仏様を意味し、これは別の言い方での阿弥陀仏です。「南無」は帰命と同じ意味です。そして「不可思議光」ははかりしれないひかりの仏様を意味し、これも別の言い方での阿弥陀仏です。
 つまり親鸞聖人は『正信偈』の冒頭2句で「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と言葉を変えて繰り返しいるのです。
 なぜ『正信偈』をつくるにあたって念仏を繰り返して始めたのでしょうか。確かめられることの1つの手掛かりが親鸞聖人が『正信偈』を書く前に記した言葉にあります。


しかれば大聖の真言に帰し、
大祖の解釈に閲して、
仏恩の深遠なるを信知して、正信念仏偈を作りて曰わく、
帰命無量寿如来 南無不可思議光


 翻訳すると、釈尊の「南無阿弥陀仏」の仏道に帰命せよという勅命に従い、七高僧たちの解説書を読んで、煩悩具足の凡夫たる私、親鸞1人のためにインドから中国から日本と数え切れない時間を通して「南無阿弥陀仏」が伝えられ届けられた。この仏恩のいかに深遠なるか、また念仏の教えが何千年と経ってこの私にはたらいていると気付かされてますます信じざるを得ない。この事実に深く感動して『正信偈』を作りて曰く、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏…という内容です。
 偈文をつくるにあたっての親鸞の感動、念仏道に帰すという表明が綴られています。ですから仏恩に対する報恩や念仏の仏道に生きるという表明から『正信偈』は「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」とはじまっていると受け止められます。

 また今回は『正信偈』の末の2句も確かめていきました。冒頭2句から先は阿弥陀仏の謂れや七高僧のお仕事がうたわれています。それらの偈文を経て最後にうたわれるのが、


道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説


 という2句です。中身は僧分であれ普通の人であれ『正信偈』を読んだ皆さん、共に阿弥陀様のお心をいただく身となって、ただ先達から伝えられた念仏の教えを二心なく受け入れていきましょうという親鸞聖人からの熱いエールです。

 『正信偈』は私たち真宗門徒が1番馴染み深い念仏の教えです。機会や時間に恵まれれば内容を確認していくことは大切なことです。今回は冒頭と末の2句ずつやりましたが、要望があれば同朋の会では他の句も確認していきたいと思います。


(筆・釋裕香)