今回は11月3日(日)の当山報恩講でいただいたご法話の「仏法不思議」に着眼してのお話でした。
歎異抄第一章に「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」とあります。誓願は阿弥陀如来の本願です。誓願不思議は人智を超越したものであり、人間の力は及びません。
私たち人間は煩悩でできており、また自分のものさしで物事を見るので事実を事実として見ることができず、真実の世界からほど遠いのです。ですが、予期せぬ時に予期せぬ出来事に見舞われ、こころの底から突き動かされ、自分を根底から覆される時に誓願不思議がはたらいて、わが身の事実を知らされるのです。そしてそこに如来のまことの世界が開示されるのです。
高僧和讃に「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて煩悩の濁水へだてなし」とうたわれています。ひとたび本願に出遇えたなら、煩悩具足のわが身であることを知らされる事により、その身のままでたすかるという教えに頷き報恩謝徳の生活が始まるのです。
(筆・坊守 釋尼育英)