2月の同朋の会も先月に引き続き慶讃法要のテーマ、「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」を皆さんと一緒に考えていきました。
今回は「人として」の「人」に焦点を置きました。親鸞聖人は聖覚が著した『唯信鈔』の冒頭に出てくる「人間」という単語に「人と生まるるをいう」という左訓をつけられました。そして親鸞聖人は聖覚の『唯信鈔』を受けて著した『唯信鈔文意』で「よろずの煩悩にしばられたるわれらなり」と私たち人間に対する述懐を述べています。
また親鸞聖人は数々の著作の中で人間のことを「苦悩の群萌」、つまり群れる他ない苦悩の人間と表現しています。人間におこる苦しみや悩みではなく、苦しみや悩みが人間であると聖人は言っているのです。
世間で人間は間に生きているから人間といったことがよく言われます。人と生まれた意味は間に生きる意味とも言えるでしょう。その間は、自分の都合関係なく、お互いに尊重し合える関係です。しかし人間は煩悩塗れですから間を見失わず生きていくというのは難しいものがあります。人との関係よりも自分本位を優先していってしまい迷うことは多々あります。そうしたときに、宗教、自分の宗となる教え、私たち真宗門徒においてはお念仏の教えが自分本位に振れている我が身を気付かせてくれます。
また住職は「人として生まれたことの意味」は言い換えれば人として死ぬことの意味だと提示しました。ことことについて機会があればまた皆さんと考えていきたいですね。
(筆・釋裕香)