慙愧(ざんき)、内に恥じ、天に恥ず。自らに恥じ、他に恥じることです。
かつてお釈迦さまは涅槃経において無慙愧の人、慚愧の心の無い人は救われないとおっしゃりました。そして如何に救われ難き存在でも慙愧の心を起こせば救われるとおっしゃりました。
観無量寿経でお馴染みの阿闍世王は、父殺しを代表とする多くの罪を自覚し、病に倒れ苦悩してました。
お釈迦さまへ最期の布施を行った純陀は自らが仏身を傷付けたと罪悪感に苛まれていました。
しかし両者、罪を自覚し、悔いている時点で既に如来によって救われる存在になっていたのです。涅槃経では罪人が救われていく様が描かれています。
罪人は罪を自覚してこそ罪人たりえる。自らを省みない存在は畜生と変わらないという言葉もあります。無慚愧という強い言葉は他人に向くのではなくどこまでも自らに向かっていく言葉なのです。
世間はそれぞれの人が自分の思い通りを通そうして傷付け合っています。煩悩が渦巻き、我欲がぶつかり合っています。そのような世界、世間で生きている自らの在り様を、お念仏のはたらきに照らされて、省みるところに悪人は救われていくのです。
朝ドラのカムカムエブリバディからの言葉の紹介がありました。
暗闇でしか見えぬものがある。暗闇でしか聞こえぬ歌がある。
住職はこの言葉に感激しておりました。我々人間は、無明のなか、迷いの世界で生きております。相対で、ものともの、人と人とをそれぞれの価値観で比べる世界です。その世界で迷い傷付け合いながら生きております。そのような暗闇の中だからこそ、お念仏によって、暗闇が暗闇だと気付ける光に照らされ、南無阿弥陀仏が聞こえてくるのです。
(筆 ・ 釈裕香)