2023年は親鸞聖人の誕生850年、立教開宗800年です。その慶讃法要のテーマについて考えていきました。
南無阿弥陀仏
人と生まれたことの意味をたずねていこう
来年の慶讃法要のテーマは以前のテーマとは違い、「南無阿弥陀仏」が掲げられています。
「南無阿弥陀仏」、念仏は真宗門徒にとって最も尊い、御本尊です。今までの慶讃法要のテーマの言葉の中には用いられていませんでしたが、真宗門徒にとっては念仏は言うまでもなく根本であります。だからかつてのテーマにはそれぞれ先立って、明言されていないだけで「南無阿弥陀仏」があったのだと考えられます。
なぜ今まで明言されなかったことが言及されたのでしょうか。この日、住職は昨今の真宗門徒が「南無阿弥陀仏」さえも私物化していないかという危機感から明言されたんだという考えを挙げました。
また住職は全ての娑婆の出来事、我欲と我欲のぶつかり合う争いの絶えない世界の出来事に先立って、阿弥陀如来の大悲「南無阿弥陀仏」があるのではないかと言いました。
私に先立って「南無阿弥陀仏」がある。「南無阿弥陀仏」が私と浄土をつなぐ。念仏があってはじめて無明闇の中にいる私に気付させていただく。如来からの大悲に引き当てられて、はじめて自分を感じる。念仏との出遇いのよって私たち衆生ははじめて娑婆に生きる自分に気付かされるのです。
しかしその「南無阿弥陀仏」をも自分のものとして取り込んでしまいうるのが私たち娑婆に生きる存在です。かつての慶讃法要のとき、もっと遡れば親鸞聖人が生きていた時代も念仏者は自分が念仏を私物化する問題を抱えていたのだろうと思います。
人間は答えを握りたい存在です。答えを握り、自分が正義という立場に立ったとき、「正す」という行為を以て、誰かを傷つけ、害を為します。
念仏はその様な在り方の自分に気付かせて下さいます。しかし念仏と出遇えば全て解決ということではございません。そして新しい自分がはじまる訳でもございません。今まで通りの自分なんだけれども、傷付け傷付け合う世界にいま存在している自分に気付かされて生きていく。それが念仏を根本とする生き方なのではないかなと感じております。あくまで私たちは阿弥陀如来によって気付かされていく存在です。自分で気付いたと履き違えたらそれこそ念仏の私物化です。答えを握り、過ちを犯す第一歩です。
今回、親鸞聖人生誕850年、立教開宗800年の慶讃法要のテーマに「南無阿弥陀仏」が明言さえたのは、やはり私も念仏者の念仏の私物化に対する危機感からと、念仏を根本とする生活の確認の思いが込められていると感じます。
(筆 ・ 釈裕香)