記事一覧

2022年6月の同朋の会

 今回は池田勇諦先生の慶讃法要お待ち受け大会の講演を振り返りつつ進行しました。
 池田先生が我々に、立教開宗・親鸞聖人のご誕生が問題になってますか、慶讃する心がありますかと問いかけられました。
親鸞聖人にとっての立教開宗は仏教の中の一部の浄土真宗というものではございません。浄土真宗によって仏教史観が開顕され、本当に一切経を読み取る眼を得るということです。
 言い換えれば、浄土真宗が根本経典とする浄土三部経がすべての仏教を包み込むんでいるのです。過去仏、釈尊、龍樹、…と脈々と続く仏教の流れは悪衆生たる私1人に南無阿弥陀仏を伝える為であると親鸞聖人は感応しているのです。
 また池田先生は南無阿弥陀仏は存在論であるとおっしゃいました。親鸞聖人にとって南無阿弥陀仏は仏道を歩む方法論ではなく、仏道を歩む主体そのものでした。
 日常において私たちは自我、私に立って生活しています。自分中心のものの見方で生活していて、自分の都合で己のものさしも時々で変わります。相対の世界で生きています。
 阿弥陀の浄土は比べる必要の無い絶対不変の世界です。良い悪いの条件をつけなくてそれぞれがそれぞれのまま尊重される世界です。
 人間は仏智に照らされたとき、自分自身を中心に生きている己が身に気付けます。そして人間と仏智を繫ぐのは南無阿弥陀仏、お念仏です。阿弥陀様のおはたらきの中で私は自分に気付けるのです。
人生転ぶ先々で仏智に照らされたとき、自ずと慶喜奉讃の心が湧いてくるのではないでしょうか。

(筆・釈裕香)