今年の報恩講も快晴の日でした。
コロナ禍、出席して下さった方々、お疲れ様でした。
下記の通り滞りなく進行出来ました。
1.坊守挨拶
2.真宗宗歌
3.勤行 正信偈 念仏 和讃 回向 御文
4.法話 蒲 信一師(三浦組浄榮寺住職)
5.住職挨拶、恩徳讃
講師として来てくださった蒲信一先生から、親鸞聖人と蒲先生の恩師であられる和田稠先生の二人の晩年を例に挙げて、浄土に生きるということについてお話をいただきました。その話をわたしなりにまとめつつ、わたくし釈裕香の所感を書いていきます。
「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」
法然上人と出遇って本願に帰した親鸞聖人も84歳の時、息子である善鸞を義絶した後、苦悩の日々が続き、よく眠れぬ夜を過ごしていました。
その日々の中で或る夜、夢告を受けます。
「康元二歳丁巳二月九日夜 寅時夢告云
弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」
この夢告を受け、息子を義絶して苦悩していた親鸞は再び活力を取り戻し、最晩年の執筆活動に情熱を燃やします。
またこの夢告があった二月九日は法然上人の元で共に活動していた安楽房が六条の河原で断首されて50年の日です。
関東の人々の教えの混乱を沈めるため息子をアテにして、結果的に義絶事件が起こり、自らを取り巻く人間関係に大いに悩んでいた親鸞聖人にとってまさに安楽房から叱責を受けたと感じたのではないでしょうか。
私達人間は世俗の中で流されて生きています。周りの人間関係、自らの健康、人によって取捨される価値観を頼りにして生きています。しかし世俗のものは変わりやすく相対で絶対ではありません。その結果、私達はアテにしていた世俗のものに振り回されるのです。
そして浄土に生きるということは、常住不変の諸仏如来の導きのもと、念仏の仏道に生きるということです。浄土に生きるというものになれば自らの健康状態も問題にはなりません。晩年に多くの著書を遺した親鸞聖人、癌を患ってからも精力的に御法話の行脚に勤しんだ和田先生、お二人の姿が浄土に生きる存在として蒲先生の目には重なって映ったのではないでしょうか。
人は他人との関わり合いの中で生き、時間と共に老いていきます。時には自分自身や自分を取り巻くものによって大きく振り回されて苦悩し迷うでしょう。その迷いの生活の中でこそ、阿弥陀如来の摂取不捨の利益、南無阿弥陀仏の教えが私達人間にはたらいて下さいます。
報恩講の日に浄土に生きるというお話をしてくださった蒲先生に改めて感謝の意を示すと同時に、私自身、自分の生き方について向き合える機縁に恵まれたことを幸せに感じます。
(筆・釈裕香)