今回も当山副住職によるお話でした。今後も若い眼で同朋会のお話のテーマを考えていってくれるでしょう。
今日は歎異抄13章に触れつつ、善悪についてのお話でした。
親鸞聖人の門下には、本願ぼこりの人(本願に甘えて悪事をはたらく人)と、賢善精進の人(規律を重んじ精進に励む人)がいました。
賢善精進の人々は「本願ぼこりは往生出来ない」と主張していました。この主張に対し歎異抄作者の唯円は「如来の本願をうたがうものであり、宿業(その人の過去、生い立ちやその人がいる環境、背景)を心得ないものだ」と指摘します。
親鸞聖人は「自分の身に悪をつくるような縁がないならとても悪事をはたらけない。また、どうしてもそうなる縁がもよおしてきたら、人間はどんな行為もするものだ」と仰っています。
賢善精進の人たちは自分たちの心が善ければ助かる、悪ければ助からないと主張しています。つまり自分たちの善悪の基準に固執していることに気付いていないのです。
そもそも善悪の基準とは何でしょう?それは誰が決めるのでしょうか?人においても、時代社会においても変わっています。
それを親鸞聖人は「一切善悪凡夫人」と言い当てられてます。私たちは善し悪しの観点から離れられない、知識を得る程わかったつもりになってしまう。これまで培ってきた自分の知識や体験において善い悪いを判別してしまうものなのです。
そんなことないと思っていてもいざとなると変わってしまうのが人間なんですね。善い悪いに終始するのではなく、何が真実か見抜く力を仏法からいただかなくてはなりません。
(筆・坊守 釋育英)