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2026年7月の同朋の会

 今回は『歎異抄』第八条、「念仏は行者のために、非行非善なり。」という言葉から、行為としての念仏を確かめていきました。

 南無阿弥陀仏、お念仏は浄土真宗の門徒にとって、行でもなく善でもない。なぜなら念仏は自分の行為ではなく如来の促しだからです。

 阿弥陀如来が私に念仏を言わせている。「私が念仏をしよう」と思う一歩先から阿弥陀様が促しているのです。私達、凡夫が手を合わせて「南無阿弥陀仏」と口にする。まさしく阿弥陀様が私達にはたらいている形です。

 阿弥陀様がはたらいているから「南無阿弥陀仏」は自力ではなく、他力の念仏です。
 ただ自力と他力の関係は相対的なものではありません。親鸞が「自力をはなれたる」と言っているように、他力がはたらいたら自力が消滅するということではなく、他力がはたらくことによって自力を中心にして生きる自分の姿がハッキリするのです。このように私たちにもたらせる功徳はまさしく如来の善です。

 「南無阿弥陀仏」、自分が自分の声を聞く。一番普遍的な聞法だと思います。

(筆・釋裕香)

2026年5月の同朋の会

勤行のみ厳修。

2026年3月の同朋の会

宗祖親鸞聖人が偈前の文で「仏恩の深遠なるを信知して正信念仏偈を作りて曰く」から正信偈が始まります。私達の迷いの世界の中で迷いながらも揺るぎない生活を送れるよう、念仏することを勧めて下さっています。なぜ念仏なのでしょうか。

 来月4月から隔月で当山聖典学習会がいよいよ始まります。親鸞聖人の主著である教行信証を学びながら、聖人のお言葉に触れ、そのお心を探っていけたら、と思います。ご興味のある方は、どうぞご一緒に学んでいきましょう。


(筆・坊守 釋尼育英)

2026年2月の同朋の会

 来月お彼岸を迎えるに当たり、その意味を考えました。太陽が真西に沈む日を中央に置いてその前後3日間ずつ、計7日間をお彼岸、浄土の期間と言います。彼岸は極楽であり、浄土であり、比べることの無い、好き嫌いや上下のない世界です。それに対して私達のいる此岸は穢土であり地獄であり、分け隔てて好き嫌いをし、上下関係のある、傷つけ合う世界です。私達はそれぞれ価値観、思いがあり、またすぐ比較をします。それにより、分け隔てるし好き嫌いも生じるのです。


「凡夫というは 無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、」(一念多念文意)


 せめて年2回ある彼岸の期間に分け隔ての無い浄土を考えましょう。ご本尊に手を合わせましょう。
      

筆・坊守 釈尼育英

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