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2025年10月の同朋の会

 来月11月3日に報恩講を迎えます。報恩講とは一言で言うと宗祖親鸞聖人のご法事です。「講」とは集まって聞法するという意味です。宗祖のご命日(11月28日)を期して、真宗寺院では毎年必ず厳修されます。宗祖が顕らかにされた真実の教えを聞信する為にです。宗祖はご自身を含め私たち人間は「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」といただき、そんな私たちでも救われる手立てを伝えてくださいました。

 報恩講という、特別な浄土の荘厳をして、特別なお勤め(正信偈真四句目下げや念仏和讃淘五)をして、講師の先生のお話を聞く、そういった特別な場が開かれます。私たちが報恩講の準備をし、開催するその前にそれに先立って宗祖からの促しがあります。私たち真宗門徒にとって報恩講とは、宗祖がいただいた大切な浄土の教えを聞信し、私たちの生活の土台、拠りどころ(宗)を明らかにする大切なご法事です。皆さん、どうぞ 11月3日の報恩講においでくださいませ。


(筆・坊守 釋尼育英)
 

2025年9月の同朋の会

 間もなくお彼岸を迎えます。真宗において「彼岸」とは 阿弥陀仏の「浄土」のことです。私たちの迷いの世界である「此岸」と分けて考えがちですが、そうではなく、「此岸」は既に「彼岸」に包まれているのです。つまり、私たちは既に極楽浄土の中にいるのです。そして浄土から 私たちの在り方や生き方を絶えず問いかけられています。浄土はいろいろな形をとって私たちにはたらきかけ(方便・応化)、私たちがそれをきちんといただいていけば自ずと生活の構え、態度がそれに応じていくのです。

 お参りという習慣の中には、そのようなことが含まれています。頭を下げ手を合わせ感謝の気持ちを表します。どこに手を合わせるのでしょうか。私たちは物事を自分のものさしで見てしまいます。人それぞれものさしは違いますが、どんなものさしを持っていてもすべてに当てはまる共通する尊いもの、本当に尊いもの、ご本尊に手を合わせるのです。


(筆・坊守 釋尼育英)

2025年8月の同朋の会

 本日の同朋の会は8月16日に開催されました。旧盆でいう送りの日です。世のでは送りの日ですが、そもそも仏さまは期間限定ではありません。お盆の冊子の中表紙に「真宗門徒にとってお盆とは」とあります。その中に「私たち真宗門徒は亡き人を諸仏といただきます。諸仏とは私たちを人間としての真実の生き方へと導いて下さる仏さまです。」とあります。
 諸仏が私たちに真実に触れよとはたらきかけてくださります。そのことで逆説的に私たちが真実ではないと気づき、今の私の在り方はこれでよいのかと問いが生じます。

 「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします(『歎異抄』より)」、真実とは南無阿弥陀仏のこと、つまり念仏申す生活が願われているのです。
 たとえ私たちが道を間違えたとしても、真実が真実の生き方に引き戻してくれるのです。私たちは念仏でしかたすからない身、聞法し続けることで気づかせていただくのです。

(筆・坊守 釋尼育英)

2025年7月の同朋の会

 当山でのお盆期間を終えて、改めてお盆について考えました。世にいうお盆とは、7月13日、お盆の入りの日に亡き人をあの世から迎え、15日明けの日の翌日16日に送る、と考えられており、それにまつわる行事を大切に継承している家々が未だ多くあるようです。ナスやキュウリで精霊馬、精霊牛を作り、精霊棚を作って迎える準備をします。お盆の3日間は亡き人に出会える大切な期間とされています。亡き人を大事にする故の行為なのでしょう。
 浄土真宗では、亡き人を霊ではなく諸仏といただきます。諸仏は私たちに真実に目覚めよ、といつでもどこでも働き続けて下さいます。忙しい日常生活を送る私たちは、せめてお盆期間だけでも仏さまと心静かに向き合い、その願いに耳を傾けましょう。それが亡き人を本当に大事にすることになるのです。

(筆・坊守 釋尼育英)

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