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2025年6月の同朋の会

 4月16日の東京教区の慶讃法要で講師をしてくださった今井雅晴先生のお話「凡夫(ただひと)として」を振り返りました。その中で「愚禿」の話が出ました。

 親鸞は『教行信証』にて「『禿』の字をもって姓とす」と宣言されました。そして「愚禿釈親鸞」「愚禿の鸞」「愚禿釈鸞」などの名乗りを残しています。
 なぜ「愚禿」なのか、諸説ありますがひとつ言われておりますのが半端ものであるという表明です。「禿」という言葉は現代のイメージですとスキンヘッドですが、当時はおかっぱ頭を指しています。子供はおかっぱで成人したならば髪を結う時代です。髪を結う前の子供は人間とはみなされていませんでした。そして成人したとて髪を結うことが許されない階級の人たちがいました。屠沽の下類と蔑まれる人々です。猟師や商人らを指します。つまり彼らは人間とはみなされなかったのです。
 親鸞聖人は承元の法難で僧の立場を剝奪され流罪に処されました。僧に非ず、かといって俗でもない立場になりました。
 破戒僧という蔑まれる立場にたち親鸞は阿弥陀如来の念仏の教えが全ての衆生を救う教えであると確かめ、そして差別される人々こそ阿弥陀の本願がはたらき、念仏の教えはいし・かわら・つぶてなるわれらを金に転じさせると揺るぎない確信を獲ました。この確信を親鸞は「愚禿」の姓の名乗りで表明しています。つまり浄土真宗の帰依の表明でもあるのです。

 
(筆・釋裕香)

2025年5月の同朋の会

豪雨により勤行のみ厳修。

2025年4月の同朋の会

 これまで「慶讃法要」について幾度となく色々な角度からお話がありました。今回は東京教区に於ける慶讃法要を目前にして、もう一度その持つ意味を確認しました。慶讃法要の慶讃とは、文字通り慶び讃える事です。何を慶び讃えるのでしょうか。私にまで教えを届けて下さった親鸞聖人のご誕生と浄土真宗の立教開宗をです。

 慶讃法要お待ち受け大会で池田勇諦師は「慶は教え、恩徳に出遇えた慶びであり、讃はこの慶びを伝える責任である。そして慶讃法要が聖人と私の1対1の関係においてでなくてはならない」と仰いました。教えに出遇えたなら、私にまで教えを届けて下さった方々のご恩を感じることができ、教えに出遇えた慶びを自分一人にとどめられない、伝えざるを得ない。師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし。これが慶讃法要に込められた願いであり、この法要が私自身を問う勝縁になることが願われています。この事を確認しつつ、慶讃法要に
参拝させて頂こうと思います。


(筆・釋尼育英)

2025年3月の同朋の会

 帰敬式を皆さんご存知でしょうか。帰敬式は仏弟子になり、南無阿弥陀仏の教えを根拠として生きていこうという表明であり、生きている今から法名を授かる場です。

 さてその帰敬式ですが、文字からすると敬うところに帰する式です。敬うというのは実は本当に難しいことです。自分が何かを敬うとして、その敬いに自分が先立っていたり、自分の中の基準を持って評価している場合は、果たして本当の敬いでしょうか。
 自分が先立っているならば、敬いの基準が自分の状態に左右され、定かなものではございません。その場その時の自分にとって都合が良いかどうかが敬いの基準なら、それはつまり敬いという名の煩悩です。

 本当に敬うというのは難しいものです。私たち真宗門徒にとって、本当に敬うものは既に先達に示され明らかにされています。

 三帰依文という有名な言葉があります。仏・法・僧(さんが)に帰依することを表明する言葉です。仏は釈尊です。法は浄土真宗では本願念仏の教え、南無阿弥陀仏です。そして僧はここでは「僧伽(さんが)」を指します。僧伽は御同朋、御同行の皆さん、そしてその私たちが集う聞法の場です。

 聞法の場に身を運び、仏の言葉に耳を傾け南無阿弥陀仏の教えを聞いていく。それは大変尊く、獲難いものです。機会、機縁に恵まれたならば是非皆さん帰敬式を受けましょう。

(筆・釋裕香)

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