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2025年2月の同朋の会

 2月の同朋の会も先月に引き続き慶讃法要のテーマ、「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」を皆さんと一緒に考えていきました。

 今回は「人として」の「人」に焦点を置きました。親鸞聖人は聖覚が著した『唯信鈔』の冒頭に出てくる「人間」という単語に「人と生まるるをいう」という左訓をつけられました。そして親鸞聖人は聖覚の『唯信鈔』を受けて著した『唯信鈔文意』で「よろずの煩悩にしばられたるわれらなり」と私たち人間に対する述懐を述べています。
 また親鸞聖人は数々の著作の中で人間のことを「苦悩の群萌」、つまり群れる他ない苦悩の人間と表現しています。人間におこる苦しみや悩みではなく、苦しみや悩みが人間であると聖人は言っているのです。

 世間で人間は間に生きているから人間といったことがよく言われます。人と生まれた意味は間に生きる意味とも言えるでしょう。その間は、自分の都合関係なく、お互いに尊重し合える関係です。しかし人間は煩悩塗れですから間を見失わず生きていくというのは難しいものがあります。人との関係よりも自分本位を優先していってしまい迷うことは多々あります。そうしたときに、宗教、自分の宗となる教え、私たち真宗門徒においてはお念仏の教えが自分本位に振れている我が身を気付かせてくれます。

 また住職は「人として生まれたことの意味」は言い換えれば人として死ぬことの意味だと提示しました。ことことについて機会があればまた皆さんと考えていきたいですね。


(筆・釋裕香)

2025年1月の同朋の会

 2025年最初の同朋の会は、「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」、という慶讃法要のテーマを今一度確かめることから始まりました。

 今回は「意味をたずねていこう」というところに焦点を置きました。「たずねる」となると誰にたずねていくのか、何に問うていくのか問題となります。たずねていくのは自己啓発や方法論ではございません。仏の教えです。

 真宗門徒は釈尊が伝え、七高僧が受け継ぎ、親鸞が明らかにした南無阿弥陀仏の教えを聞いています。南無阿弥陀仏は称えたからといって、自分自身がスーパーマンになるような呪文ではございません。

 阿弥陀様がなんとか衆生を救わんとして誓われ、受け入れる先の世界を創られました。阿弥陀の浄土です。娑婆世界の私たち衆生が阿弥陀の浄土に気付き繋がる手立て、目印としてお念仏「南無阿弥陀仏」という行の形をとられました。阿弥陀様が衆生を救わんとした願いが込められている「南無阿弥陀仏」、お念仏の教えを聞いていく。それは人と生まれた意味をたずねていく私たち真宗門徒の大切な視座です。


(筆・釋裕香)

2024年12月の同朋の会

 2025年4月14日~18日に真宗会館にて厳修される慶讃法要について触れ、そのテーマをもう一度考えてみました。

 「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」がテーマです。まず「人と生まれる」ですが、三帰依文に「人身受け難し」とあるように、生まれることは当たり前のことではありません。様々なご縁が重なって、ようやくこの世に生まれさせていただくのです。また「人と生まれる」ことには「生老病死」の四苦がついてきます。これは誰しも避けることができません。生まれることによって苦しみが始まるのです。人間にはそれぞれ感情、自分の思いがあり、自分の物差しを持っています。思い通りにいけば良し、そうでなければ苦しみます。また私たちは比べることをします。これも苦しみの原因になります。老病死ということからみるとどうでしょう。好むひとはいないと思います。若く健康で自信に満ち溢れていた過去の自分と老いた今の自分を比べて「昔はこうだったのに、こんなはずじゃなかった」と苦しみます。

 次に「意味をたずねる」の「たずねる」ですが、教えに問い聞くということです。「なぜ、どうして」等疑問、問いを持たなければ たずねることはできません。問いも持たず、「そういうものか」と何となく生きているようでは「生」の実感を持てないですよね。

 「人と生まれることの意味」を教えにたずねることは、そういう私たちの身の事実を教えによって気づかせていただくことです。自分の思いに振り回され一喜一憂するのが人間。四苦を越えていくにはどうすればいいのでしょう?そのためには、私の中心に、私の思いでなく、何を置くのかを絶えず確かめることが大切です。私たち真宗門徒にとって、中心軸は「南無阿弥陀仏」お念仏です。それは私と阿弥陀様をつなぐ、唯一の行です。阿弥陀様にお任せするということは、安心して苦しめるということです。人間である以上、苦はなくなりませんが、苦を背負って生きていける道があるのです。


(筆・坊守 釋尼育英)

2024年11月の同朋の会

 今回は11月3日(日)の当山報恩講でいただいたご法話の「仏法不思議」に着眼してのお話でした。

 歎異抄第一章に「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」とあります。誓願は阿弥陀如来の本願です。誓願不思議は人智を超越したものであり、人間の力は及びません。

 私たち人間は煩悩でできており、また自分のものさしで物事を見るので事実を事実として見ることができず、真実の世界からほど遠いのです。ですが、予期せぬ時に予期せぬ出来事に見舞われ、こころの底から突き動かされ、自分を根底から覆される時に誓願不思議がはたらいて、わが身の事実を知らされるのです。そしてそこに如来のまことの世界が開示されるのです。

 高僧和讃に「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて煩悩の濁水へだてなし」とうたわれています。ひとたび本願に出遇えたなら、煩悩具足のわが身であることを知らされる事により、その身のままでたすかるという教えに頷き報恩謝徳の生活が始まるのです。


(筆・坊守 釋尼育英)