10月23日、午前9時より「お磨き」をいたしました。
報恩講にむけて仏具お磨きです。
仏具は、この一年で黒ずんでいました。
約3時間を掛けて皆さんはお磨きをして、
白銀色の輝きの仏具が完成しました。
報恩講法要は、11月3日です。
皆様のお越しをお待ちしております。
釈茂寿
10月23日、午前9時より「お磨き」をいたしました。
報恩講にむけて仏具お磨きです。
仏具は、この一年で黒ずんでいました。
約3時間を掛けて皆さんはお磨きをして、
白銀色の輝きの仏具が完成しました。
報恩講法要は、11月3日です。
皆様のお越しをお待ちしております。
釈茂寿
今回も当山副住職によるお話でした。今後も若い眼で同朋会のお話のテーマを考えていってくれるでしょう。
今日は歎異抄13章に触れつつ、善悪についてのお話でした。
親鸞聖人の門下には、本願ぼこりの人(本願に甘えて悪事をはたらく人)と、賢善精進の人(規律を重んじ精進に励む人)がいました。
賢善精進の人々は「本願ぼこりは往生出来ない」と主張していました。この主張に対し歎異抄作者の唯円は「如来の本願をうたがうものであり、宿業(その人の過去、生い立ちやその人がいる環境、背景)を心得ないものだ」と指摘します。
親鸞聖人は「自分の身に悪をつくるような縁がないならとても悪事をはたらけない。また、どうしてもそうなる縁がもよおしてきたら、人間はどんな行為もするものだ」と仰っています。
賢善精進の人たちは自分たちの心が善ければ助かる、悪ければ助からないと主張しています。つまり自分たちの善悪の基準に固執していることに気付いていないのです。
そもそも善悪の基準とは何でしょう?それは誰が決めるのでしょうか?人においても、時代社会においても変わっています。
それを親鸞聖人は「一切善悪凡夫人」と言い当てられてます。私たちは善し悪しの観点から離れられない、知識を得る程わかったつもりになってしまう。これまで培ってきた自分の知識や体験において善い悪いを判別してしまうものなのです。
そんなことないと思っていてもいざとなると変わってしまうのが人間なんですね。善い悪いに終始するのではなく、何が真実か見抜く力を仏法からいただかなくてはなりません。
(筆・坊守 釋育英)
8月19日は格別に暑い1日でした。この暑さはいつまで続くのでしょうか。
今日は西福寺副住職による「自力と他力」についてのお話でした。
「自力」ということばの方がわかりやすいでしょうか?自分の力で何とかする、頑張るといった意味ですね。一方世間で流通している「他力」は他人まかせ、人の力をアテにすると受け止められ、努力を怠っているようなマイナスな感さえありますね。この場合他力よりも自力の方が受け入れやすいでしょう。でも真宗でいう他力とはそれとはまるで意味が違います。そういう話ではないのです。
正信偈依釈段の第一に登場する龍樹菩薩は、お釈迦さまの教えは「縁起」「空」であるという中道仏教を提唱されました。そしてそれが私たちの上に成就していく道として「称名念仏」を説かれたのです。
顕示難行陸路苦
信楽易行水道楽
書き下すと「難行の陸路苦しきことを顕示して」、「易行の水道楽しきことを信楽せしむ」です。
難行の陸路とは自力の仏道です。自分の力で菩薩道をすすむ、これは親鸞聖人でさえかなわなかったことですね。「人事を尽くして天命を待つ」、この場合思う通りの結果が出ないと不平不満が出ます。故に最後は神たのみとなります。
一方易行の水道とは、念仏を称えることで誰であっても救われるという他力の仏道です。
他力とは如来の本願力なり
当山の掲示板でご覧になった方もいると思います。「天命に安んじて人事を尽くす」、天命は阿弥陀様の願い、本願です。阿弥陀様が必ず救いとってくださるのだから阿弥陀様にお任せして、結果がどうであれ、自分に与えられたこと、するべきことに全力を尽くす。これは他人の力をアテにするという現代語とちがいますね。
こうして並べて対比していると、自力と他力は対立するようにとらわれるかもしれません。しかし人間のする自力も他力の内にあるのです。自力を自力と気付くのも他力のはたらきがあればこそなのです。
(筆・西福寺坊守 釈尼育英)
7月13、14、15日はお盆でした。今回はお盆を終えて改めて故人の受け止め方・いただき方を考えていきました。
日本人が想像するお盆は祖霊信仰と結びついていると思われます。祖先を大事にすることは大切なことです。しかし祖先を「祖霊」、つまり霊的存在として受け止めることはどういうことになるのでしょうか。
よくよく考えてみると祖先の「霊」を追善供養し冥福を祈ることは、祖先を敬う見返りに除災招福という結果を望む発想です。この世で悪いことが起きたり続いているのはあの世が荒れていてるからだという発想にも通じています。だから私から霊に対して「〜がうまくいきますように」「悪いことが起こりませんように」という願いが向かっている構図がよく見られることかと思います。
それに対して真宗では祖先のことを「諸仏」、仏様としていただきます。諸仏の方々は先立ってこの上ない阿弥陀の浄土に往かれましたので、追善供養する必要はありません。また祖霊信仰ですと私から亡き方に様々なことをお願いするのですが諸仏といただく真宗ではそれとは逆です。仏様方は絶えず生きている私たちのことを心配しておられるのです。
ただ生きている私たちは日常生活の中で心静かに祖先の方々と向き合える時間は多くはありません。ですから真宗門徒にとってのお盆とは一旦、日常から離れて先祖の方々を思い偲びつつ真向かう1つの機縁なのです。
お墓参りでもそうです。墓地に足を運び亡き方を思い出し偲ぶと同時に仏様の教えに出遇う機縁でございます。真宗の墓石は古いものですと「〜家之墓」という形もありますが、「南無阿弥陀仏」という字を彫っている形が正式です。お墓に行って、洗って、手を合わせ拝むのは「南無阿弥陀仏」という名号です。それはお墓に来て名号を拝んて下さいという諸仏の方々からの願いでございます。
「南無阿弥陀仏」という名号・お念仏に普段日常生活の中でどれほど目にして口にして手を合わせているでしょうか。そして私たちはどれほど「南無阿弥陀仏」に救いを感じ、阿弥陀様や諸仏となられた先祖の方々に感謝の気持ちを抱いているでしょうか。お墓参りは先祖に導かれ名号に手を合わせ、いま私はどう生きているかと自分と向き合う機会でもございます。
日本人には祖霊信仰や霊的存在への畏れからの敬いが身に染み付いているかと思われます。しかし私たちが霊信仰に振り回されていても諸仏の方々はその先から心配しておられるのです。
また私から霊的存在にいろいろお願いする姿勢は自力の姿勢に通じております。生きていく中で自力の姿勢はうまくいってるときは自分の中では問題になりません。ですが人生がずっと思い通りにならないように躓くときがたくさんあります。躓いたときに故人への態度さえ自力の姿勢ですと、誰かに足元を掬われるかもしれません。そうならない為にもお盆や法要などその時々の機縁で、諸仏の方々からの願いに耳を傾けようとすることが大切なのです。
(筆・釈裕香)