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2023年12月の同朋の会

 今日は勤行のあと歎異抄第三条を拝読したので、同朋の会前半は三条について触れました。かの有名な「悪人正機(悪人が阿弥陀仏の救済の正機である親鸞聖人の言葉)」について確認しました。
 ここでいう悪人とは自分が真実に背き本願を信ぜざるを得ない存在であると自覚している人のことです。それに対し善人とは自力作善の人のことをいいます。自分の力によって善い行いをすることができると思っている人です。従って善人の為す善には自分の想いが入っており、想いはそれぞれの人間の価値観に左右されますから、不安定なものをあてにしています。自力作善の偽善性が指摘されているところですね。「濁世の道俗、よく己が能を思量せよ」、能=分を分かっているのが悪人ですね。


 後半には副住職からお話がありました。西福寺だよりにて2023年を振り返った記事をもとに話していきました。
 世の中で起きる戦争を筆頭とした悪事は全て自分が正義であると信じ、それを押し通すことで発生します。ネット上における誹謗中傷も然り、自分が正しいと信じ、自分の価値観で自分と異なる人を「ヘイト」という形で徹底的に叩く。当然相手を傷つける上にさまざまな争いが生じます。またネット上での発言は相手を見ず自分も名乗らないことが殆どですからいとも簡単にヘイトが吐き出されます。まさに餓鬼畜生の本性が出て地獄がつくられていきます。
 こういった地獄を地獄だと気付かさせてくれるのが阿弥陀様の浄土です。自分が悪人であるという自覚を持つことが浄土往生の正因です。

(筆・釋尼育英)

2023年11月の同朋の会

 今回は西福寺の報恩講に今年も来てくださった蒲先生のお話を振り返って行きました。
 蒲先生のお話の中で「原点に還る」というテーマが掲げられました。親鸞聖人がいただいた原点を私たち真宗門徒も原点としていただいていく、それはどういうことでしょうか。
 

 親鸞聖人が9歳から29歳まで所属していた比叡山延暦寺は当時の最高学府です。仏教を学び修行が出来る最高の環境でしたが、親鸞聖人はそこでは生死出づべき道は見つかりませんでした。そして山を降りて法然上人の草庵に行き、激的な体験をしたのです。法然上人の草庵はどんな人でも、身分性別関係なく集える世界でした。念仏の教えとそれに相まって広がる光景、阿弥陀の本願に頷く人たち…まさに法然上人のもとには様々な人が集まり互いに輝いていました。
 当時もともと流行っていた極楽浄土の思想は上流階級に限られたものでした。比叡山も女人禁制です。それを法然上人は武士や商人、猟師、女性など全ての人に「南無阿弥陀仏」の仏道を開放しました。「南無阿弥陀仏」のもとに誰でも人々が集まる光景、身分や能力、性別などで比べることがない平等な世界でした。まさしく親鸞聖人が雑行を棄てて本願に帰した原点です。
 

 では親鸞聖人が体験し私たちに伝えて下さったことを、私たちはどういただいていくのでしょうか。生活していく上でお念仏は原点となっていますでしょうか。皆さんもどうぞ自問してみて下さい。
 現代社会、昔とは比べものにならないくらい情報は溢れています。日常生活を送るだけでも世間に流布している善悪の価値観に流されることも少なくありません。しかしふとした瞬間に比べることのない阿弥陀の浄土から照らされて、自分が過ごしている世界を見つめ直す、比べざるを得ない人間の本質に気付くことがあります。
 そのときどきの価値観に振り回されっぱなしの人生はとても空しいものです。必ず善悪、勝劣がつきまといます。それにいつまでも勝ち続けることなんて出来ません。しかし阿弥陀の浄土が生活の原点となっていれば転んだとき、迷ったとき自分を振り返る機縁となり軸となります。蒲先生が話された「原点に還る」というテーマはこのことを皆さんと共有したかったのではないでしょうか。


(筆・釋裕香)

2023年 お磨き 

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10月23日、午前9時より「お磨き」をいたしました。

報恩講にむけて仏具お磨きです。
仏具は、この一年で黒ずんでいました。
約3時間を掛けて皆さんはお磨きをして、
白銀色の輝きの仏具が完成しました。

報恩講法要は、11月3日です。
皆様のお越しをお待ちしております。

  釈茂寿

2023年10月の同朋の会

 今回も当山副住職によるお話でした。今後も若い眼で同朋会のお話のテーマを考えていってくれるでしょう。
 今日は歎異抄13章に触れつつ、善悪についてのお話でした。
 親鸞聖人の門下には、本願ぼこりの人(本願に甘えて悪事をはたらく人)と、賢善精進の人(規律を重んじ精進に励む人)がいました。
 賢善精進の人々は「本願ぼこりは往生出来ない」と主張していました。この主張に対し歎異抄作者の唯円は「如来の本願をうたがうものであり、宿業(その人の過去、生い立ちやその人がいる環境、背景)を心得ないものだ」と指摘します。
 親鸞聖人は「自分の身に悪をつくるような縁がないならとても悪事をはたらけない。また、どうしてもそうなる縁がもよおしてきたら、人間はどんな行為もするものだ」と仰っています。
 賢善精進の人たちは自分たちの心が善ければ助かる、悪ければ助からないと主張しています。つまり自分たちの善悪の基準に固執していることに気付いていないのです。
 そもそも善悪の基準とは何でしょう?それは誰が決めるのでしょうか?人においても、時代社会においても変わっています。
 それを親鸞聖人は「一切善悪凡夫人」と言い当てられてます。私たちは善し悪しの観点から離れられない、知識を得る程わかったつもりになってしまう。これまで培ってきた自分の知識や体験において善い悪いを判別してしまうものなのです。
 そんなことないと思っていてもいざとなると変わってしまうのが人間なんですね。善い悪いに終始するのではなく、何が真実か見抜く力を仏法からいただかなくてはなりません。


(筆・坊守 釋育英)