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2023年6月の同朋の会

 

 同朋会は新たに参加される方を喜んでお迎えします

 
 何かの折に「何宗ですか?」と聞かれたら、ご門徒の皆さんは「浄土真宗です」と答えられますよね。ところで浄土真宗とは一体何でしょうか?世間に名告っている教団名ではありますが、ただそれだけのことでしょうか?
 「浄土真宗」…文字通りの、浄土を真の宗とする、生き方です。ではそれはどういうことなのでしょうか?そもそも「浄土」はどこか遠くにある手の届かないところではありません。「浄土」は苦しみのない、迷いなき世界です。なぜなら私たち凡夫のように比べることをしない、況や比べること自体が存在しない世界だからです。
 私たちがいるこの苦しみ多き人間世界「娑婆世界」の中で私たち凡夫は、自分たちの思いに囚われて、常に真実の眼で物事を見ることは出来ません。その時代や環境の影響を受け、自分の思い・ものさしで物事をみるから苦しみが生じるのです。常に比べているのです。それが差別へと発展します。


凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。(『一念多念文意』)


 厳しいですけれど親鸞聖人は私たち凡夫の姿を言い当てて下さってます。「念仏成仏是真宗」、苦しみ多き私たちを離れて浄土真宗は存在しません。私たちや私たちの社会の迷いに気付いてほしい、浄土からの呼び掛けに耳を澄まし自身を見つめ直すことが浄土真宗を名告る門徒の姿なのです。
 同朋会は教学を学ぶことだけを目的としていません。ご一緒に聞法していきましょう。気付くことが大切ですよね。

(筆・西福寺坊守 釈尼育英)

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もうすぐお盆を迎えます。(7/13木〜7/15土)
どうぞ、暑さ対策なされてお参り下さいませ。  

2023年5月の同朋の会

 先日の慶讃法要団体参拝のとき、比叡山で昼食を食べたました。そのとき山の僧侶が「山の環境で静かに修行して精進料理を食べる生活に親鸞聖人は感動したのでは」という旨のお話をしていたのですが、これは大きな誤りでございます。
 親鸞聖人はむしろ比叡山での生活には感動出来なかった人でございます。自力で修行をしても煩悩消えず菩薩道成就せず、苦悩の果てに六角堂に百日参り仏様より夢告を受け、29歳のとき遂に法然上人に出遇います。この法然上人との出遇いが親鸞聖人にとっての感動でした。


  しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の歴、雑行を棄てて本願に帰す。


 『教行信証』の後序の有名な一文です。簡単に訳すと「わたくし親鸞は29歳のときに、自力修行の道を棄てて本願念仏をいただく道に帰依する」です。法然との出遇いについてとても力強い言葉で語られています。自力修行の道を捨てるのではなく棄てるのです。捨てるならば拾うこともありましょう。ですが「棄」はなげすてるという意味です。廃棄や死体遺棄といった言葉が例に挙がるでしょう。つまり棄てるならば拾うことはありません。あえて「棄」の字を用いたのは親鸞聖人の自力を棄てて他力に帰すという強い決意の表明だと受け止めています。
 いつでもどこでもだれでも念仏すれば、阿弥陀仏によって、救われていく念仏の仏道…法然上人との出遇いによって親鸞聖人にもたらされたただ念仏の教えは親鸞聖人に大きな感動を与えると共にその後の人生において彼の大きな原動力になっていきます。それは流罪された後の関東での活動、数々の遺された執筆から感じることが出来ます。


(筆・釈裕香)

2023年4月の同朋の会

 慶讃法要を目前に控えたこの回では真宗、南無阿弥陀仏の仏教に出遇うとどうなっていくのかという課題を皆さんと考えていきました。
 親鸞聖人は『高僧和讃』で


  本願力にあいぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて
  煩悩の濁水へだてなし


という偈を残されています。本願力にあうというのは念仏の仏道に遇うということです。本願「力」でありますから力がはたらいています。また本願力は仏様からのはたらきかけ、他力でございます。他力が煩悩具足の凡夫たる私にはたらいた結果、私は念仏の仏道に遇うことが出来た。そして親鸞聖人は念仏の仏道と出遇った感動をこの偈では「むなしくすぐるひとぞなき…」と続けて表現しているのです。
 さて、人が南無阿弥陀仏と出遇うとどうなっていくのでしょうか。私が変わるのか?性格が変わるのか?意識改革・道徳規範・精神鍛錬といったものなのでしょうか?
 意識改革や精神鍛錬という行動は「何々しよう」として自分が混じる能動的動作、自力でございます。自分混じりでありますから不安定で変わっていくものです。他力というのは自力のはからいを超えていくはたらきです。私自身が何かをして自分を変えようとするのではありません。むしろ私自身はアクションを起こさないけれど、私を支える土台がしっかりとする。無常の世に生きながら、不変の宗に目覚める。そのように他力がはたらいた結果を人は知覚し感じるのでしょう。
 親鸞聖人は煩悩の濁水は無くなるとは言っていません。濁水はへだてをなくして功徳の宝海の中にあると言っています。このことをよくよく頭の片隅に入れて、生活していきたいですね。   

(筆・釈裕香)

2023年3月の同朋の会

 今回は3つの課題を皆さんと考えていきました。


  ありのままの自分は好きですか
  誰とでも仲良くなれますか
  人間何のために生きていますか


 これらの課題に対して、自分を通して問うていく。大変大切なことです。自己肯定の問題・差別の意識・自らの存在意義、忙しい日常生活を送っているうちは表面には出てこない問いかもしれません。しかし、人間生きていれば、ふとした隙間にこういった問いを避けては通れないと思います。
 繰り返しますが大切なのは問い続けたずねていくことです。そして答えを出すことは非常に危ういことです。自分が出す答えには、その時その場の自身の想いが入ります。ですからどんな状況、どんな時分にも対応出来るものではなく、状況に応じてコロコロ変わっていくものです。ましてや自分の中で出したと思っている答えに固執すると、それが通用しなくなる度に自分自身が不安定になってしまいます。いわゆる「分かったつもり」状態ですね。
 また「たずねていく」ということはどこ「に」たずねていくかということが重要になっていきます。釈尊は涅槃の際に


  法に依りて人に依らざるべし
  義に依りて語に依らざるべし
  智に依りて識に依らざるべし
  了義経に依りて不了義に依らざるべし


と四依の教えを残しています。仏法は純一ですが、人は一人ひとり違う上に変化していくものです。またここでいう「義」というのは争いの余地がない真の仏義を指します。語はそれを伝える手段に過ぎません。智は仏智であり、識は情識です。情識には人の想いが入ります。了義経は円かに仏の義を説いた経説です。そして親鸞聖人は私たち凡夫に「南無阿弥陀仏」の仏道を伝え明かしました。
 目まぐるしく変わり続ける娑婆に私たちは生きています。当然私たちは生きている限り変わっていきますし、私たちが抱く想いも状況によって変わっていきます。それに対して仏様がおられる浄土は不変です。阿弥陀の浄土から垂れている念仏の仏智もまた不変です。しかも阿弥陀如来、諸仏如来は衆生を救わんと常に我々を照らして下さってます。
 なに「に」どこ「に」たずねていくか。もし「南無阿弥陀仏」に知恩し、報恩の想いあれば、浄土を根本として歩まんと思わざるを得ないでしょう。


(筆・釈裕香)