同朋新聞5月号題材に、南無阿弥陀仏を考えていきました。
門徒さんから以下の言葉を頂きました。
何が何だか意味は分からないけど南無阿弥陀仏
痛烈一閃、この言葉こそ真宗を表していると受け止めました。
意味や由来、解釈は学びたい人が、出来るときに、余裕がある時に学べればよいのです。
深く学ばないと救われないということは一切ありません。いつでもどこでも誰にでも、お念仏の仏道は開かれるのです。それが如来様に身を任せる他力の仏道なのです。念仏を称えれば救われる生き方なのです。
(筆 ・ 釈裕香)
同朋新聞5月号題材に、南無阿弥陀仏を考えていきました。
門徒さんから以下の言葉を頂きました。
何が何だか意味は分からないけど南無阿弥陀仏
痛烈一閃、この言葉こそ真宗を表していると受け止めました。
意味や由来、解釈は学びたい人が、出来るときに、余裕がある時に学べればよいのです。
深く学ばないと救われないということは一切ありません。いつでもどこでも誰にでも、お念仏の仏道は開かれるのです。それが如来様に身を任せる他力の仏道なのです。念仏を称えれば救われる生き方なのです。
(筆 ・ 釈裕香)
慙愧(ざんき)、内に恥じ、天に恥ず。自らに恥じ、他に恥じることです。
かつてお釈迦さまは涅槃経において無慙愧の人、慚愧の心の無い人は救われないとおっしゃりました。そして如何に救われ難き存在でも慙愧の心を起こせば救われるとおっしゃりました。
観無量寿経でお馴染みの阿闍世王は、父殺しを代表とする多くの罪を自覚し、病に倒れ苦悩してました。
お釈迦さまへ最期の布施を行った純陀は自らが仏身を傷付けたと罪悪感に苛まれていました。
しかし両者、罪を自覚し、悔いている時点で既に如来によって救われる存在になっていたのです。涅槃経では罪人が救われていく様が描かれています。
罪人は罪を自覚してこそ罪人たりえる。自らを省みない存在は畜生と変わらないという言葉もあります。無慚愧という強い言葉は他人に向くのではなくどこまでも自らに向かっていく言葉なのです。
世間はそれぞれの人が自分の思い通りを通そうして傷付け合っています。煩悩が渦巻き、我欲がぶつかり合っています。そのような世界、世間で生きている自らの在り様を、お念仏のはたらきに照らされて、省みるところに悪人は救われていくのです。
朝ドラのカムカムエブリバディからの言葉の紹介がありました。
暗闇でしか見えぬものがある。暗闇でしか聞こえぬ歌がある。
住職はこの言葉に感激しておりました。我々人間は、無明のなか、迷いの世界で生きております。相対で、ものともの、人と人とをそれぞれの価値観で比べる世界です。その世界で迷い傷付け合いながら生きております。そのような暗闇の中だからこそ、お念仏によって、暗闇が暗闇だと気付ける光に照らされ、南無阿弥陀仏が聞こえてくるのです。
(筆 ・ 釈裕香)
久しぶりということもあり、真宗大谷派の宗旨、教えを改めて確認しました。
真宗は南無阿弥陀仏に生きる仏道です。南無阿弥陀仏は念仏のことです。阿弥陀仏に南無する、つまり阿弥陀仏に帰依する言(ことば)であります。
念仏を称えることで、阿弥陀仏によって、真実の世界に導くと約束されております。そして念仏はそのおはたらきと同時に、身の事実、この身が生きている世界の様相を気付かせて下さいます。
阿弥陀の別の言い方は、無量光、無量寿です。無量とは量る必要の無いという意味です。比べる必要の無いということです。
大悲から阿弥陀如来が苦しみ傷つけあう我々を哀愍して垂れたお念仏は一切衆生、生きとし生きるものを取りこぼさず、例外なくお救い下さり、相対的なあり方、生き方で苦しむ私たちを照らしてくださるのです。
(筆 ・ 釈裕香)
西福寺門徒の会合、同朋の会が、じつに約1年半ぶりに開催されました。
本堂で正信偈のお勤めをへて、住職からのお話に耳をかたむけました。
引き続き変異株の感染拡大がはじまっていることは気がかりですが、今年こそ以前のように定期的に同朋が顔をあわせ語り合えるようになればと思っています。
次回は2月19日(土)を予定しています。
手洗い消毒器を完備し、換気もしていますので、ぜひ足をお運びください。
(釈正裕)