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2025年8月の同朋の会

 本日の同朋の会は8月16日に開催されました。旧盆でいう送りの日です。世のでは送りの日ですが、そもそも仏さまは期間限定ではありません。お盆の冊子の中表紙に「真宗門徒にとってお盆とは」とあります。その中に「私たち真宗門徒は亡き人を諸仏といただきます。諸仏とは私たちを人間としての真実の生き方へと導いて下さる仏さまです。」とあります。
 諸仏が私たちに真実に触れよとはたらきかけてくださります。そのことで逆説的に私たちが真実ではないと気づき、今の私の在り方はこれでよいのかと問いが生じます。

 「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします(『歎異抄』より)」、真実とは南無阿弥陀仏のこと、つまり念仏申す生活が願われているのです。
 たとえ私たちが道を間違えたとしても、真実が真実の生き方に引き戻してくれるのです。私たちは念仏でしかたすからない身、聞法し続けることで気づかせていただくのです。

(筆・坊守 釋尼育英)

2025年7月の同朋の会

 当山でのお盆期間を終えて、改めてお盆について考えました。世にいうお盆とは、7月13日、お盆の入りの日に亡き人をあの世から迎え、15日明けの日の翌日16日に送る、と考えられており、それにまつわる行事を大切に継承している家々が未だ多くあるようです。ナスやキュウリで精霊馬、精霊牛を作り、精霊棚を作って迎える準備をします。お盆の3日間は亡き人に出会える大切な期間とされています。亡き人を大事にする故の行為なのでしょう。
 浄土真宗では、亡き人を霊ではなく諸仏といただきます。諸仏は私たちに真実に目覚めよ、といつでもどこでも働き続けて下さいます。忙しい日常生活を送る私たちは、せめてお盆期間だけでも仏さまと心静かに向き合い、その願いに耳を傾けましょう。それが亡き人を本当に大事にすることになるのです。

(筆・坊守 釋尼育英)

2025年6月の同朋の会

 4月16日の東京教区の慶讃法要で講師をしてくださった今井雅晴先生のお話「凡夫(ただひと)として」を振り返りました。その中で「愚禿」の話が出ました。

 親鸞は『教行信証』にて「『禿』の字をもって姓とす」と宣言されました。そして「愚禿釈親鸞」「愚禿の鸞」「愚禿釈鸞」などの名乗りを残しています。
 なぜ「愚禿」なのか、諸説ありますがひとつ言われておりますのが半端ものであるという表明です。「禿」という言葉は現代のイメージですとスキンヘッドですが、当時はおかっぱ頭を指しています。子供はおかっぱで成人したならば髪を結う時代です。髪を結う前の子供は人間とはみなされていませんでした。そして成人したとて髪を結うことが許されない階級の人たちがいました。屠沽の下類と蔑まれる人々です。猟師や商人らを指します。つまり彼らは人間とはみなされなかったのです。
 親鸞聖人は承元の法難で僧の立場を剝奪され流罪に処されました。僧に非ず、かといって俗でもない立場になりました。
 破戒僧という蔑まれる立場にたち親鸞は阿弥陀如来の念仏の教えが全ての衆生を救う教えであると確かめ、そして差別される人々こそ阿弥陀の本願がはたらき、念仏の教えはいし・かわら・つぶてなるわれらを金に転じさせると揺るぎない確信を獲ました。この確信を親鸞は「愚禿」の姓の名乗りで表明しています。つまり浄土真宗の帰依の表明でもあるのです。

 
(筆・釋裕香)

2025年5月の同朋の会

豪雨により勤行のみ厳修。