豪雨により勤行のみ厳修。

これまで「慶讃法要」について幾度となく色々な角度からお話がありました。今回は東京教区に於ける慶讃法要を目前にして、もう一度その持つ意味を確認しました。慶讃法要の慶讃とは、文字通り慶び讃える事です。何を慶び讃えるのでしょうか。私にまで教えを届けて下さった親鸞聖人のご誕生と浄土真宗の立教開宗をです。
慶讃法要お待ち受け大会で池田勇諦師は「慶は教え、恩徳に出遇えた慶びであり、讃はこの慶びを伝える責任である。そして慶讃法要が聖人と私の1対1の関係においてでなくてはならない」と仰いました。教えに出遇えたなら、私にまで教えを届けて下さった方々のご恩を感じることができ、教えに出遇えた慶びを自分一人にとどめられない、伝えざるを得ない。師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし。これが慶讃法要に込められた願いであり、この法要が私自身を問う勝縁になることが願われています。この事を確認しつつ、慶讃法要に
参拝させて頂こうと思います。
(筆・釋尼育英)
帰敬式を皆さんご存知でしょうか。帰敬式は仏弟子になり、南無阿弥陀仏の教えを根拠として生きていこうという表明であり、生きている今から法名を授かる場です。
さてその帰敬式ですが、文字からすると敬うところに帰する式です。敬うというのは実は本当に難しいことです。自分が何かを敬うとして、その敬いに自分が先立っていたり、自分の中の基準を持って評価している場合は、果たして本当の敬いでしょうか。
自分が先立っているならば、敬いの基準が自分の状態に左右され、定かなものではございません。その場その時の自分にとって都合が良いかどうかが敬いの基準なら、それはつまり敬いという名の煩悩です。
本当に敬うというのは難しいものです。私たち真宗門徒にとって、本当に敬うものは既に先達に示され明らかにされています。
三帰依文という有名な言葉があります。仏・法・僧(さんが)に帰依することを表明する言葉です。仏は釈尊です。法は浄土真宗では本願念仏の教え、南無阿弥陀仏です。そして僧はここでは「僧伽(さんが)」を指します。僧伽は御同朋、御同行の皆さん、そしてその私たちが集う聞法の場です。
聞法の場に身を運び、仏の言葉に耳を傾け南無阿弥陀仏の教えを聞いていく。それは大変尊く、獲難いものです。機会、機縁に恵まれたならば是非皆さん帰敬式を受けましょう。
(筆・釋裕香)
2月の同朋の会も先月に引き続き慶讃法要のテーマ、「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」を皆さんと一緒に考えていきました。
今回は「人として」の「人」に焦点を置きました。親鸞聖人は聖覚が著した『唯信鈔』の冒頭に出てくる「人間」という単語に「人と生まるるをいう」という左訓をつけられました。そして親鸞聖人は聖覚の『唯信鈔』を受けて著した『唯信鈔文意』で「よろずの煩悩にしばられたるわれらなり」と私たち人間に対する述懐を述べています。
また親鸞聖人は数々の著作の中で人間のことを「苦悩の群萌」、つまり群れる他ない苦悩の人間と表現しています。人間におこる苦しみや悩みではなく、苦しみや悩みが人間であると聖人は言っているのです。
世間で人間は間に生きているから人間といったことがよく言われます。人と生まれた意味は間に生きる意味とも言えるでしょう。その間は、自分の都合関係なく、お互いに尊重し合える関係です。しかし人間は煩悩塗れですから間を見失わず生きていくというのは難しいものがあります。人との関係よりも自分本位を優先していってしまい迷うことは多々あります。そうしたときに、宗教、自分の宗となる教え、私たち真宗門徒においてはお念仏の教えが自分本位に振れている我が身を気付かせてくれます。
また住職は「人として生まれたことの意味」は言い換えれば人として死ぬことの意味だと提示しました。ことことについて機会があればまた皆さんと考えていきたいですね。
(筆・釋裕香)