記事一覧

2024年12月の同朋の会

 2025年4月14日~18日に真宗会館にて厳修される慶讃法要について触れ、そのテーマをもう一度考えてみました。

 「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」がテーマです。まず「人と生まれる」ですが、三帰依文に「人身受け難し」とあるように、生まれることは当たり前のことではありません。様々なご縁が重なって、ようやくこの世に生まれさせていただくのです。また「人と生まれる」ことには「生老病死」の四苦がついてきます。これは誰しも避けることができません。生まれることによって苦しみが始まるのです。人間にはそれぞれ感情、自分の思いがあり、自分の物差しを持っています。思い通りにいけば良し、そうでなければ苦しみます。また私たちは比べることをします。これも苦しみの原因になります。老病死ということからみるとどうでしょう。好むひとはいないと思います。若く健康で自信に満ち溢れていた過去の自分と老いた今の自分を比べて「昔はこうだったのに、こんなはずじゃなかった」と苦しみます。

 次に「意味をたずねる」の「たずねる」ですが、教えに問い聞くということです。「なぜ、どうして」等疑問、問いを持たなければ たずねることはできません。問いも持たず、「そういうものか」と何となく生きているようでは「生」の実感を持てないですよね。

 「人と生まれることの意味」を教えにたずねることは、そういう私たちの身の事実を教えによって気づかせていただくことです。自分の思いに振り回され一喜一憂するのが人間。四苦を越えていくにはどうすればいいのでしょう?そのためには、私の中心に、私の思いでなく、何を置くのかを絶えず確かめることが大切です。私たち真宗門徒にとって、中心軸は「南無阿弥陀仏」お念仏です。それは私と阿弥陀様をつなぐ、唯一の行です。阿弥陀様にお任せするということは、安心して苦しめるということです。人間である以上、苦はなくなりませんが、苦を背負って生きていける道があるのです。


(筆・坊守 釋尼育英)

2024年11月の同朋の会

 今回は11月3日(日)の当山報恩講でいただいたご法話の「仏法不思議」に着眼してのお話でした。

 歎異抄第一章に「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」とあります。誓願は阿弥陀如来の本願です。誓願不思議は人智を超越したものであり、人間の力は及びません。

 私たち人間は煩悩でできており、また自分のものさしで物事を見るので事実を事実として見ることができず、真実の世界からほど遠いのです。ですが、予期せぬ時に予期せぬ出来事に見舞われ、こころの底から突き動かされ、自分を根底から覆される時に誓願不思議がはたらいて、わが身の事実を知らされるのです。そしてそこに如来のまことの世界が開示されるのです。

 高僧和讃に「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて煩悩の濁水へだてなし」とうたわれています。ひとたび本願に出遇えたなら、煩悩具足のわが身であることを知らされる事により、その身のままでたすかるという教えに頷き報恩謝徳の生活が始まるのです。


(筆・坊守 釋尼育英)

2024年10月の同朋の会

 今回は11月3日(日)の当山報恩講を前にして、報恩講の意味についてのお話でした。報恩講とは 一言で言えば親鸞聖人のご法事です。「報恩」とは、自分が受けた恩に報いることであり、「講」とは、皆で集い語り合うことです。親鸞聖人のご恩に報いる為に行われる法会なのです。
 では、どんなご恩をいただいたのでしょうか。親鸞聖人は本願念仏に遇われ本願念仏の世界に生きられました。お念仏、南無阿弥陀仏が生活の根本である、私が生きていく上での土台はお念仏、南無阿弥陀仏より他にないことを顕らかにされました。他を土台にしても生きていけると思われますか?人間が考えたもの、作ったものを当てにするとどうなるでしょう?うまくいっている時は良いでしょうが、都合が悪くなったり、うまくいかなくなるとたちまちダメになり、苦しみます。例えば 健康であることを当てにする場合、努力して健康でいられる時は良いですが、事故にあったり病に襲われたらどうですか?それに人間は老いるものですし。財力だってあるほうが良いかも知れませんが、土台にはなりませんよね。
 どんな人にもどんなことがあっても揺るがない中心軸、それはお念仏一つでよいのです。そのことを顕らかにしてくださった親鸞聖人のご恩に報恩講を通して気づきましょう、報いましょう。報恩講は私たち一人一人のために行われるのです。


             ********


 御門徒の皆様へ 
来る11月3日(日) 西福寺報恩講を厳修いたします。万障繰り合わせの上、お越しください。お待ちしています。

(筆・坊守 釋尼育英)

2024年9月の同朋の会

 今回は間もなく迎える彼岸について、彼岸の冊子を基にしたお話でした。
 お彼岸で思いつくのは墓参りですね。彼岸期間には多くの方が墓参りに見えて墓地が色とりどりの花で飾られます。
 ところで彼岸とはどんな意味なのでしょうか?文字通り、彼の岸、向こう岸のことで、輪廻を超えた涅槃の境地、つまり悟りの世界、浄土の世界の事です。それに対し此岸とはこちら側、迷いと悩みの苦の世界、私達が生きている現実世界のことです。
 彼岸の中日は、昼と夜の長さが同じになり、太陽が真東から上り、真西に沈みます。長さが等しいことから、どちらにも偏らない、仏教が説く中道の教えに叶うとされています。
 我欲により分け隔てる苦悩の此岸から、分け隔てのない安楽の彼岸(浄土)を想い手を合わせる時なのです。
 お彼岸に亡き方々(諸仏)を偲びつつ、浄土を想い手を合わせお念仏する。浄土のはたらきにより、私の今の在り方が照らし出され、問われてくる。そんな大切な機縁になることが願われています。


(筆・坊守 釋尼育英)

ページ移動