記事一覧

2023年11月の同朋の会

 今回は西福寺の報恩講に今年も来てくださった蒲先生のお話を振り返って行きました。
 蒲先生のお話の中で「原点に還る」というテーマが掲げられました。親鸞聖人がいただいた原点を私たち真宗門徒も原点としていただいていく、それはどういうことでしょうか。
 

 親鸞聖人が9歳から29歳まで所属していた比叡山延暦寺は当時の最高学府です。仏教を学び修行が出来る最高の環境でしたが、親鸞聖人はそこでは生死出づべき道は見つかりませんでした。そして山を降りて法然上人の草庵に行き、激的な体験をしたのです。法然上人の草庵はどんな人でも、身分性別関係なく集える世界でした。念仏の教えとそれに相まって広がる光景、阿弥陀の本願に頷く人たち…まさに法然上人のもとには様々な人が集まり互いに輝いていました。
 当時もともと流行っていた極楽浄土の思想は上流階級に限られたものでした。比叡山も女人禁制です。それを法然上人は武士や商人、猟師、女性など全ての人に「南無阿弥陀仏」の仏道を開放しました。「南無阿弥陀仏」のもとに誰でも人々が集まる光景、身分や能力、性別などで比べることがない平等な世界でした。まさしく親鸞聖人が雑行を棄てて本願に帰した原点です。
 

 では親鸞聖人が体験し私たちに伝えて下さったことを、私たちはどういただいていくのでしょうか。生活していく上でお念仏は原点となっていますでしょうか。皆さんもどうぞ自問してみて下さい。
 現代社会、昔とは比べものにならないくらい情報は溢れています。日常生活を送るだけでも世間に流布している善悪の価値観に流されることも少なくありません。しかしふとした瞬間に比べることのない阿弥陀の浄土から照らされて、自分が過ごしている世界を見つめ直す、比べざるを得ない人間の本質に気付くことがあります。
 そのときどきの価値観に振り回されっぱなしの人生はとても空しいものです。必ず善悪、勝劣がつきまといます。それにいつまでも勝ち続けることなんて出来ません。しかし阿弥陀の浄土が生活の原点となっていれば転んだとき、迷ったとき自分を振り返る機縁となり軸となります。蒲先生が話された「原点に還る」というテーマはこのことを皆さんと共有したかったのではないでしょうか。


(筆・釋裕香)

2023年報恩講

ファイル 169-1.jpgファイル 169-2.jpg

 2023年11月3日(金)は快晴、汗ばむくらいの陽気でした。
 【報恩講】…なぜ必ず厳修されるのか、なぜ真宗門徒にとって最も大切な仏事なのか。
 「原点に還る」というテーマで浄栄寺蒲ご住職にお話ししていただきました。
 比叡山で自力修行に励んでいた親鸞聖人は、これでは救われないと絶望して山を下りられた。そして既に山を下りられていた法然上人のうわさを耳にし、上人を訪ねられた。法然上人のもとにはありとあらゆる人々が集まって教えを聞いていました。そこには老若男女、貴賤、職業を問わずまた身分のちがいや立場を越えた世界がありました。「これこそ浄土」、差別や比較することがない聞法の場でした。親鸞聖人は法然上人の教えに感動し、自ら教えを深め広められた。その教えが今も私たちにまで届いている…有り難いことなのです。
 私たちは親鸞聖人の成されたお仕事に感謝し、その御恩に報い、後世に伝えていかなくてはなりません。
 毎年勤まる報恩講は、教えに照らされ自分の有り様を省みるまたとない機会なのです。


(筆・坊守 釋尼育英)

2023年 お磨き 

ファイル 167-1.jpgファイル 167-2.jpgファイル 167-3.jpg

10月23日、午前9時より「お磨き」をいたしました。

報恩講にむけて仏具お磨きです。
仏具は、この一年で黒ずんでいました。
約3時間を掛けて皆さんはお磨きをして、
白銀色の輝きの仏具が完成しました。

報恩講法要は、11月3日です。
皆様のお越しをお待ちしております。

  釈茂寿

2023年10月の同朋の会

 今回も当山副住職によるお話でした。今後も若い眼で同朋会のお話のテーマを考えていってくれるでしょう。
 今日は歎異抄13章に触れつつ、善悪についてのお話でした。
 親鸞聖人の門下には、本願ぼこりの人(本願に甘えて悪事をはたらく人)と、賢善精進の人(規律を重んじ精進に励む人)がいました。
 賢善精進の人々は「本願ぼこりは往生出来ない」と主張していました。この主張に対し歎異抄作者の唯円は「如来の本願をうたがうものであり、宿業(その人の過去、生い立ちやその人がいる環境、背景)を心得ないものだ」と指摘します。
 親鸞聖人は「自分の身に悪をつくるような縁がないならとても悪事をはたらけない。また、どうしてもそうなる縁がもよおしてきたら、人間はどんな行為もするものだ」と仰っています。
 賢善精進の人たちは自分たちの心が善ければ助かる、悪ければ助からないと主張しています。つまり自分たちの善悪の基準に固執していることに気付いていないのです。
 そもそも善悪の基準とは何でしょう?それは誰が決めるのでしょうか?人においても、時代社会においても変わっています。
 それを親鸞聖人は「一切善悪凡夫人」と言い当てられてます。私たちは善し悪しの観点から離れられない、知識を得る程わかったつもりになってしまう。これまで培ってきた自分の知識や体験において善い悪いを判別してしまうものなのです。
 そんなことないと思っていてもいざとなると変わってしまうのが人間なんですね。善い悪いに終始するのではなく、何が真実か見抜く力を仏法からいただかなくてはなりません。


(筆・坊守 釋育英)