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2024年6月の同朋の会

「ご冥福をお祈りします」


 この言葉に皆さん覚えがありますでしょう。誰かが亡くなられたときに自分が言ったり、テレビで芸能人が亡くなったニュースが流れたときにアナウンサーが言うのを聞いたり、馴染みがあると思います。
 しかしながら「ご冥福をお祈りします」という言葉に明確に意味を定義して使っている人は多くはないと思います。なんとなく人が亡くなられたときに使う挨拶みたいな言葉だから使っているんじゃないでしょうか。その「なんとなく」という感覚も自分が育って来た中で形成された「あの世観」が下地になっていると思います。
 「あの世観」とは死後の世界に対する見方の1つです。死後の世界が実際にあるかは誰も分かりませんが、頭の中でこの世に対してあの世があるという対立関係が成立している考え方です。この考えは教えらてきた道徳、例えば悪いことをしたら地獄に落ちる、や文学や漫画などの創作物から育まれてきたものです。
 さて「あの世観」なのですが、この考え方は暫しあの世がこの世を支配しているという考え方に通じていきます。現実の世界で上手くいかないとき、不幸が続いたときにその原因をあの世に求めてしまうのです。あるいは辛い状況に置かれた自分の心のやすらぎの為にあの世に助けを求めてしまうことも起こり得ます。そうなってしまったら迷いが更に深まるでしょう。
 真宗に生きていく中での気付きのひとつは「あの世観」に振り回されている自分に気付くことです。しばし浄土とあの世を一緒に考えている人がいますが、それは誤りです。浄土の世界は往生する世界です。死んでいくのではなく生まれていく世界です。親鸞聖人が言う「往生定まる身となる」は迷っている自分の生き方がはっきりして見えてくるということです。
 迷っている昨日までの私が死に、新しい私が生まれる。仏教ではこのことを「回心」と言いますが、「回心」は仏様の他力のはたらきあってのことです。欲や想いが混じった自分の力では気付けません。
 今回は「あの世観」から真宗の生き方や往生についてを住職の話を聞きながら確かめていきました。また機会があれば浄土と往生について皆さんと共有していきたいですね。


(筆・釋裕香)

2024年5月の同朋の会

 今回は『正信偈』の冒頭2句、末の2句を確かめていきました。
『正信偈』は


帰命無量寿如来 南無不可思議光


 という冒頭から始まります。「帰命」は生活の根本とするという意味です。「無量寿如来」ははかりしれないいのちの仏様を意味し、これは別の言い方での阿弥陀仏です。「南無」は帰命と同じ意味です。そして「不可思議光」ははかりしれないひかりの仏様を意味し、これも別の言い方での阿弥陀仏です。
 つまり親鸞聖人は『正信偈』の冒頭2句で「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と言葉を変えて繰り返しいるのです。
 なぜ『正信偈』をつくるにあたって念仏を繰り返して始めたのでしょうか。確かめられることの1つの手掛かりが親鸞聖人が『正信偈』を書く前に記した言葉にあります。


しかれば大聖の真言に帰し、
大祖の解釈に閲して、
仏恩の深遠なるを信知して、正信念仏偈を作りて曰わく、
帰命無量寿如来 南無不可思議光


 翻訳すると、釈尊の「南無阿弥陀仏」の仏道に帰命せよという勅命に従い、七高僧たちの解説書を読んで、煩悩具足の凡夫たる私、親鸞1人のためにインドから中国から日本と数え切れない時間を通して「南無阿弥陀仏」が伝えられ届けられた。この仏恩のいかに深遠なるか、また念仏の教えが何千年と経ってこの私にはたらいていると気付かされてますます信じざるを得ない。この事実に深く感動して『正信偈』を作りて曰く、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏…という内容です。
 偈文をつくるにあたっての親鸞の感動、念仏道に帰すという表明が綴られています。ですから仏恩に対する報恩や念仏の仏道に生きるという表明から『正信偈』は「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」とはじまっていると受け止められます。

 また今回は『正信偈』の末の2句も確かめていきました。冒頭2句から先は阿弥陀仏の謂れや七高僧のお仕事がうたわれています。それらの偈文を経て最後にうたわれるのが、


道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説


 という2句です。中身は僧分であれ普通の人であれ『正信偈』を読んだ皆さん、共に阿弥陀様のお心をいただく身となって、ただ先達から伝えられた念仏の教えを二心なく受け入れていきましょうという親鸞聖人からの熱いエールです。

 『正信偈』は私たち真宗門徒が1番馴染み深い念仏の教えです。機会や時間に恵まれれば内容を確認していくことは大切なことです。今回は冒頭と末の2句ずつやりましたが、要望があれば同朋の会では他の句も確認していきたいと思います。


(筆・釋裕香)

2024年4月の同朋の会

 今回はお念仏の話を基に進めました。一言で言えば真宗はお念仏の仏道です。「念仏成仏是真宗」、念仏とは仏を念じることで尊号たる六字名号「南無阿弥陀仏」を称えることです。そうすれば阿弥陀仏のお誓いにより邪見矯慢悪衆生の私達人間が誰一人漏れることなく救われるという教えです。末法濁世の今、煩悩まみれの私たち人間が救われるたった1つの行が称名念仏です。
 「南無阿弥陀仏」は阿弥陀仏を南無するということです。南無は帰命、生活の根本にするという意味です。そして阿弥陀仏は無量寿(計り知れない命)・無量光(計り知れない智恵)という意味です。『正信偈』の冒頭の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」はこれは南無阿弥陀仏のことです。
 「南無阿弥陀仏」と称える。私達人間の思いを越えて、計らうことなく手を合わせお念仏する。ただそれだけでよいのです。何か自分にとって都合の良いことが起こるとか、自分の期待に沿うとか、そういうことは全くありません。今の自分の有り様に気づける事に恵まれれば、同じ生活をしていても自分や自分が生きている世界の見方が変わってきます。それが私たち人間が救われる第一歩なのです。


(筆・釋尼育英)

2024年3月の同朋の会

 今回は住職の話を聞きながら門徒の皆さんと一緒に「彼岸」と「此岸」を確認していきました。
 門徒の皆さんの話では三途の川を挟んで極楽の世界の「彼岸」、地獄の世界の「此岸」というイメージが挙げられました。
 仏教では極楽浄土は別け隔てのない世界で阿弥陀仏の住する世界です。また親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」と称えてふたごころなく阿弥陀仏に帰命するあり方を「自然(じねん)」と表現しています。自然とは自分のはからいをいれない、自我に基づいた良し悪しのとらわれから離れるあるがままの様です。
 そして地獄は別け隔てのある世界でまさしく私たち人間が住んでいる世界です。人間はそれぞれ思いを持っています。好き嫌い、良し悪し様々です。違う思い同士がぶつかり合えば傷つけ合って争いになります。痛みと苦しみが生まれ絶えない世界を私たちは生きています。
 彼岸と此岸、極楽と地獄、直感のイメージではあの世とこの世、死んだ後の世界と思うかもしれません。普段、日常を過ごす中ではなかなか自分が地獄に生きているなと感じられる瞬間は多くないかもしれません。しかし私たち人間の眼が煩悩で曇っていても、ときに阿弥陀仏の浄土や自然(じねん)のあり方は対照的な私たちの地獄の様相をくっきり明瞭に観えるように気付かせてくれます。そのような今の自分を気付かせてくれる機会が私たちが住んでいる地獄と阿弥陀仏や諸仏の方々がおられる極楽浄土の接点ではないでしょうか。


(筆・釋裕香)