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2024年2月の同朋の会

 1月31日に前進座による「花こぶし」を観劇しました。今回は 親鸞聖人関東布教時代の有名なエピソードの一つである「山伏弁円の回心」に触れました。その当時 筑波山の修験者を束ねていた弁円は、人々が親鸞聖人のお念仏に惹かれて山伏弁円らの修験道から遠ざかっていくことに腹を立て、祈禱や呪法で聖人を亡き者にしようとしました。そんな弁円を親鸞聖人は受け入れ、共に念仏をとなえながら歩もうと諭し、弁円は感動して回心したのです。
 弁円の姿から、「人事を尽くして天命を待つ」と「天命に安んじて人事を尽くす」という表現を思い起こし、考えてみました。前者は世間でもよく聞きますね。自分の思いで努力してできるだけの事をして、後は天の命を待つ。天の命とは何でしょうか?人間の力の及ばない何か大きな力、ということでしょうか?でも本当に天の命を待てますか?思い通りの結果が得られたときはよいですが、そうじゃなかったら、どうでしょうか?果たして愚痴はでないと思いますか?
 真宗では、後者です。一見似て見えるように思われるかもしれませんが、意味は全く違います。この場合、天命=本願です。自分の思いではないのです。本願に包まれて、安心して力を尽くす。そして結果がどうであれ、事実を引き受ける事ができる。そんな生活態度でいられたら、どんなに楽でしょうか。


(筆・釋尼育英)

2024年1月の同朋の会

 能登半島地震で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

 今回の同朋の会は能登半島地震をもとに話が進められました。このような自然災害が起こるにつけ、私たち人間の脆さや無力さを痛感します。
 能登地域は真宗王国と聞いています。毎日の朝事を勤め歎異抄にも親しまれているそうです。教えは被災され傷ついた方々にどう響くでしょうか。


 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。
 浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおしふびんとおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々


 親鸞聖人が顕かにされた教えとは、どのような人であってもどのような境遇にあっても安心して人生を尽くしていける、という内容です。
 「念仏成仏是真宗」こういう教えを聞いてきた、被災された方々がどう感じてますでしょうか。私たち真宗門徒は日常に生きている時も、日常が壊された時も念仏の教えに耳をかたむけるほかありません。


(筆・釋尼育英)

2023年12月の同朋の会

 今日は勤行のあと歎異抄第三条を拝読したので、同朋の会前半は三条について触れました。かの有名な「悪人正機(悪人が阿弥陀仏の救済の正機である親鸞聖人の言葉)」について確認しました。
 ここでいう悪人とは自分が真実に背き本願を信ぜざるを得ない存在であると自覚している人のことです。それに対し善人とは自力作善の人のことをいいます。自分の力によって善い行いをすることができると思っている人です。従って善人の為す善には自分の想いが入っており、想いはそれぞれの人間の価値観に左右されますから、不安定なものをあてにしています。自力作善の偽善性が指摘されているところですね。「濁世の道俗、よく己が能を思量せよ」、能=分を分かっているのが悪人ですね。


 後半には副住職からお話がありました。西福寺だよりにて2023年を振り返った記事をもとに話していきました。
 世の中で起きる戦争を筆頭とした悪事は全て自分が正義であると信じ、それを押し通すことで発生します。ネット上における誹謗中傷も然り、自分が正しいと信じ、自分の価値観で自分と異なる人を「ヘイト」という形で徹底的に叩く。当然相手を傷つける上にさまざまな争いが生じます。またネット上での発言は相手を見ず自分も名乗らないことが殆どですからいとも簡単にヘイトが吐き出されます。まさに餓鬼畜生の本性が出て地獄がつくられていきます。
 こういった地獄を地獄だと気付かさせてくれるのが阿弥陀様の浄土です。自分が悪人であるという自覚を持つことが浄土往生の正因です。

(筆・釋尼育英)

2023年11月の同朋の会

 今回は西福寺の報恩講に今年も来てくださった蒲先生のお話を振り返って行きました。
 蒲先生のお話の中で「原点に還る」というテーマが掲げられました。親鸞聖人がいただいた原点を私たち真宗門徒も原点としていただいていく、それはどういうことでしょうか。
 

 親鸞聖人が9歳から29歳まで所属していた比叡山延暦寺は当時の最高学府です。仏教を学び修行が出来る最高の環境でしたが、親鸞聖人はそこでは生死出づべき道は見つかりませんでした。そして山を降りて法然上人の草庵に行き、激的な体験をしたのです。法然上人の草庵はどんな人でも、身分性別関係なく集える世界でした。念仏の教えとそれに相まって広がる光景、阿弥陀の本願に頷く人たち…まさに法然上人のもとには様々な人が集まり互いに輝いていました。
 当時もともと流行っていた極楽浄土の思想は上流階級に限られたものでした。比叡山も女人禁制です。それを法然上人は武士や商人、猟師、女性など全ての人に「南無阿弥陀仏」の仏道を開放しました。「南無阿弥陀仏」のもとに誰でも人々が集まる光景、身分や能力、性別などで比べることがない平等な世界でした。まさしく親鸞聖人が雑行を棄てて本願に帰した原点です。
 

 では親鸞聖人が体験し私たちに伝えて下さったことを、私たちはどういただいていくのでしょうか。生活していく上でお念仏は原点となっていますでしょうか。皆さんもどうぞ自問してみて下さい。
 現代社会、昔とは比べものにならないくらい情報は溢れています。日常生活を送るだけでも世間に流布している善悪の価値観に流されることも少なくありません。しかしふとした瞬間に比べることのない阿弥陀の浄土から照らされて、自分が過ごしている世界を見つめ直す、比べざるを得ない人間の本質に気付くことがあります。
 そのときどきの価値観に振り回されっぱなしの人生はとても空しいものです。必ず善悪、勝劣がつきまといます。それにいつまでも勝ち続けることなんて出来ません。しかし阿弥陀の浄土が生活の原点となっていれば転んだとき、迷ったとき自分を振り返る機縁となり軸となります。蒲先生が話された「原点に還る」というテーマはこのことを皆さんと共有したかったのではないでしょうか。


(筆・釋裕香)