記事一覧

2023年報恩講

ファイル 169-1.jpgファイル 169-2.jpg

 2023年11月3日(金)は快晴、汗ばむくらいの陽気でした。
 【報恩講】…なぜ必ず厳修されるのか、なぜ真宗門徒にとって最も大切な仏事なのか。
 「原点に還る」というテーマで浄栄寺蒲ご住職にお話ししていただきました。
 比叡山で自力修行に励んでいた親鸞聖人は、これでは救われないと絶望して山を下りられた。そして既に山を下りられていた法然上人のうわさを耳にし、上人を訪ねられた。法然上人のもとにはありとあらゆる人々が集まって教えを聞いていました。そこには老若男女、貴賤、職業を問わずまた身分のちがいや立場を越えた世界がありました。「これこそ浄土」、差別や比較することがない聞法の場でした。親鸞聖人は法然上人の教えに感動し、自ら教えを深め広められた。その教えが今も私たちにまで届いている…有り難いことなのです。
 私たちは親鸞聖人の成されたお仕事に感謝し、その御恩に報い、後世に伝えていかなくてはなりません。
 毎年勤まる報恩講は、教えに照らされ自分の有り様を省みるまたとない機会なのです。


(筆・坊守 釋尼育英)

2023年 お磨き 

ファイル 167-1.jpgファイル 167-2.jpgファイル 167-3.jpg

10月23日、午前9時より「お磨き」をいたしました。

報恩講にむけて仏具お磨きです。
仏具は、この一年で黒ずんでいました。
約3時間を掛けて皆さんはお磨きをして、
白銀色の輝きの仏具が完成しました。

報恩講法要は、11月3日です。
皆様のお越しをお待ちしております。

  釈茂寿

2023年10月の同朋の会

 今回も当山副住職によるお話でした。今後も若い眼で同朋会のお話のテーマを考えていってくれるでしょう。
 今日は歎異抄13章に触れつつ、善悪についてのお話でした。
 親鸞聖人の門下には、本願ぼこりの人(本願に甘えて悪事をはたらく人)と、賢善精進の人(規律を重んじ精進に励む人)がいました。
 賢善精進の人々は「本願ぼこりは往生出来ない」と主張していました。この主張に対し歎異抄作者の唯円は「如来の本願をうたがうものであり、宿業(その人の過去、生い立ちやその人がいる環境、背景)を心得ないものだ」と指摘します。
 親鸞聖人は「自分の身に悪をつくるような縁がないならとても悪事をはたらけない。また、どうしてもそうなる縁がもよおしてきたら、人間はどんな行為もするものだ」と仰っています。
 賢善精進の人たちは自分たちの心が善ければ助かる、悪ければ助からないと主張しています。つまり自分たちの善悪の基準に固執していることに気付いていないのです。
 そもそも善悪の基準とは何でしょう?それは誰が決めるのでしょうか?人においても、時代社会においても変わっています。
 それを親鸞聖人は「一切善悪凡夫人」と言い当てられてます。私たちは善し悪しの観点から離れられない、知識を得る程わかったつもりになってしまう。これまで培ってきた自分の知識や体験において善い悪いを判別してしまうものなのです。
 そんなことないと思っていてもいざとなると変わってしまうのが人間なんですね。善い悪いに終始するのではなく、何が真実か見抜く力を仏法からいただかなくてはなりません。


(筆・坊守 釋育英)

2023年8月の同朋の会

 8月19日は格別に暑い1日でした。この暑さはいつまで続くのでしょうか。
 今日は西福寺副住職による「自力と他力」についてのお話でした。
 「自力」ということばの方がわかりやすいでしょうか?自分の力で何とかする、頑張るといった意味ですね。一方世間で流通している「他力」は他人まかせ、人の力をアテにすると受け止められ、努力を怠っているようなマイナスな感さえありますね。この場合他力よりも自力の方が受け入れやすいでしょう。でも真宗でいう他力とはそれとはまるで意味が違います。そういう話ではないのです。
 正信偈依釈段の第一に登場する龍樹菩薩は、お釈迦さまの教えは「縁起」「空」であるという中道仏教を提唱されました。そしてそれが私たちの上に成就していく道として「称名念仏」を説かれたのです。


  顕示難行陸路苦
  信楽易行水道楽


 書き下すと「難行の陸路苦しきことを顕示して」、「易行の水道楽しきことを信楽せしむ」です。
 難行の陸路とは自力の仏道です。自分の力で菩薩道をすすむ、これは親鸞聖人でさえかなわなかったことですね。「人事を尽くして天命を待つ」、この場合思う通りの結果が出ないと不平不満が出ます。故に最後は神たのみとなります。
 一方易行の水道とは、念仏を称えることで誰であっても救われるという他力の仏道です。


  他力とは如来の本願力なり


 当山の掲示板でご覧になった方もいると思います。「天命に安んじて人事を尽くす」、天命は阿弥陀様の願い、本願です。阿弥陀様が必ず救いとってくださるのだから阿弥陀様にお任せして、結果がどうであれ、自分に与えられたこと、するべきことに全力を尽くす。これは他人の力をアテにするという現代語とちがいますね。
 こうして並べて対比していると、自力と他力は対立するようにとらわれるかもしれません。しかし人間のする自力も他力の内にあるのです。自力を自力と気付くのも他力のはたらきがあればこそなのです。

(筆・西福寺坊守 釈尼育英)