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2023年4月の同朋の会

 慶讃法要を目前に控えたこの回では真宗、南無阿弥陀仏の仏教に出遇うとどうなっていくのかという課題を皆さんと考えていきました。
 親鸞聖人は『高僧和讃』で


  本願力にあいぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて
  煩悩の濁水へだてなし


という偈を残されています。本願力にあうというのは念仏の仏道に遇うということです。本願「力」でありますから力がはたらいています。また本願力は仏様からのはたらきかけ、他力でございます。他力が煩悩具足の凡夫たる私にはたらいた結果、私は念仏の仏道に遇うことが出来た。そして親鸞聖人は念仏の仏道と出遇った感動をこの偈では「むなしくすぐるひとぞなき…」と続けて表現しているのです。
 さて、人が南無阿弥陀仏と出遇うとどうなっていくのでしょうか。私が変わるのか?性格が変わるのか?意識改革・道徳規範・精神鍛錬といったものなのでしょうか?
 意識改革や精神鍛錬という行動は「何々しよう」として自分が混じる能動的動作、自力でございます。自分混じりでありますから不安定で変わっていくものです。他力というのは自力のはからいを超えていくはたらきです。私自身が何かをして自分を変えようとするのではありません。むしろ私自身はアクションを起こさないけれど、私を支える土台がしっかりとする。無常の世に生きながら、不変の宗に目覚める。そのように他力がはたらいた結果を人は知覚し感じるのでしょう。
 親鸞聖人は煩悩の濁水は無くなるとは言っていません。濁水はへだてをなくして功徳の宝海の中にあると言っています。このことをよくよく頭の片隅に入れて、生活していきたいですね。   

(筆・釈裕香)

2023年3月の同朋の会

 今回は3つの課題を皆さんと考えていきました。


  ありのままの自分は好きですか
  誰とでも仲良くなれますか
  人間何のために生きていますか


 これらの課題に対して、自分を通して問うていく。大変大切なことです。自己肯定の問題・差別の意識・自らの存在意義、忙しい日常生活を送っているうちは表面には出てこない問いかもしれません。しかし、人間生きていれば、ふとした隙間にこういった問いを避けては通れないと思います。
 繰り返しますが大切なのは問い続けたずねていくことです。そして答えを出すことは非常に危ういことです。自分が出す答えには、その時その場の自身の想いが入ります。ですからどんな状況、どんな時分にも対応出来るものではなく、状況に応じてコロコロ変わっていくものです。ましてや自分の中で出したと思っている答えに固執すると、それが通用しなくなる度に自分自身が不安定になってしまいます。いわゆる「分かったつもり」状態ですね。
 また「たずねていく」ということはどこ「に」たずねていくかということが重要になっていきます。釈尊は涅槃の際に


  法に依りて人に依らざるべし
  義に依りて語に依らざるべし
  智に依りて識に依らざるべし
  了義経に依りて不了義に依らざるべし


と四依の教えを残しています。仏法は純一ですが、人は一人ひとり違う上に変化していくものです。またここでいう「義」というのは争いの余地がない真の仏義を指します。語はそれを伝える手段に過ぎません。智は仏智であり、識は情識です。情識には人の想いが入ります。了義経は円かに仏の義を説いた経説です。そして親鸞聖人は私たち凡夫に「南無阿弥陀仏」の仏道を伝え明かしました。
 目まぐるしく変わり続ける娑婆に私たちは生きています。当然私たちは生きている限り変わっていきますし、私たちが抱く想いも状況によって変わっていきます。それに対して仏様がおられる浄土は不変です。阿弥陀の浄土から垂れている念仏の仏智もまた不変です。しかも阿弥陀如来、諸仏如来は衆生を救わんと常に我々を照らして下さってます。
 なに「に」どこ「に」たずねていくか。もし「南無阿弥陀仏」に知恩し、報恩の想いあれば、浄土を根本として歩まんと思わざるを得ないでしょう。


(筆・釈裕香)

2023年2月の同朋の会

 今月も親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年の慶讃法要のテーマ


  南無阿弥陀仏
  人と生まれた意義と生きる喜びを見つけよう


というテーマを中心に考えていきました。
 テーマに先立って「南無阿弥陀仏」があります。このことは生きる喜びや意義を自分のものさしで見つけようとするのではなく、南無阿弥陀仏を根本にしてたずねていくことを明確にしています。さらにテーマの後ろにも南無阿弥陀仏がくっついているのではないかと住職は意見を出しました。
 先立って南無阿弥陀仏があって、締め括りでも南無阿弥陀仏に摂まっていく。言い換えれば南無阿弥陀仏と称えれば、阿弥陀仏の誓願によって私たち衆生が摂めとられて溢れることなく救われていく。龍樹菩薩は「即時入必定」といい、曇鸞大師は「入正定聚之数」といいました。さらに親鸞聖人は「仰いでこれを憑むべし」と我々に語りかけています。「正定聚」というのは念仏称えて信心獲れば、往生すべき身と定まることです。今までに阿弥陀仏の浄土に往かれた諸仏の方々と等しいとも親鸞聖人は言い切ってます。人が死ぬその瞬間だけの問題では無くなる訳です。既に阿弥陀仏によって約束された身だからこそ、これまでも、今も、これからも、南無阿弥陀仏を通して自分自身と向き合い、聞法し悩んでいくのです。また信楽を獲ることは難の中の難です。そのことについてはまたいずれ何処かで聞法していきましょう。


(筆・釈裕香)

2023年1月の同朋の会

 2023年になって最初の同朋の会でした。気付けば早いもので親鸞聖人御誕生850年立教開宗800年の慶讃法要まであと数ヶ月になりました。今月も慶讃法要の「南無阿弥陀仏 人と生まれた意味をたずねていこう」というテーマについて皆さんと考えていきました。
 「人と生まれた意味」、私たちは人間として生を受けています。自分が生まれるということは親を選べず、時代を選べず、地域を選べず、全てを背負います。誠に不本意でございます。「人と生まれた意味」が問われるということは私が生まれた意味が問われたということです。
 自分自身が問われたとき、私たち凡夫のリアクションとして自己中心的に考えて答えを出そうとしがちですが、それでは分かったつもりに陥ります。また私たち人間は疑心の人です。往々にして自己都合が悪くなったら考えの中心線を変えていきます。自分自身が問われてもこれでは迷いが深まっていきます。
 大切なのは自分が問われたとき「たずねていこう」という姿勢です。たずねていくというのは真摯に聞く姿勢、受け身でございます。人智を超えた常・一乗の仏智「南無阿弥陀仏」を根本にして生まれた意味をたずねていく、真宗門徒の大切な姿勢です。
 また生まれた意味は生き方の是非で左右されません。最後に清沢満之先生の言葉を紹介します。


  天命に安んじて人事を尽くす


阿弥陀仏のよびかけ・南無阿弥陀仏に安心して、結果はどうあれ、力の限りを尽くす、命を尽くしていく。これも大切な真宗門徒の姿勢です。

(筆・釈裕香)