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2022年12月の同朋の会

 先月に引き続き、仏恩について考えていきました。
恩徳讃には「師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし」という歌詞がございます。
 「師主知識」というのは真宗を脈々と伝えてくださった人々です。釈尊・七高僧をはじめ、先んじて阿弥陀仏の誓願により諸仏になられた方々でございます。
 私達現代人が煩雑な日常生活を送る中で念仏の教えを意識するときは恐らく限られた瞬間でしょう。例えば誰か近しい方が亡くなったときや、亡くなったことを想起するときです。人間が亡くなることは、大変な事実ではありますが、避けられない世界に私達は生きています。亡くなられた方とはもう会えません。
 命の事実を仏様から教えていただく、亡くなられた方をお偲び申し上げることを通して仏法が聞けた。節々にそう感じるときが仏様になられた方へ知恩し報恩する瞬間でしょう。
 また1つ留意しておくべきこととして仏恩は自己都合関係なく感じるものでございます。例えば「○○さんから仕事がうまくいかないとき助けていただいた」や「大病患ったが名手の先生に助けていただいた」というときに感じる恩は自己都合の恩でごさいます。人情の世界の話です。当然生きている人間が関わり合って生活を営んでいる以上、人情というのは大切なものです。そして仏恩は人情の世界を含めて超え、仏法・南無阿弥陀仏に出遇わせてくれる恩でございます。私たち人間は娑婆の世界に生まれ、ものを食い、死んでいく存在です。阿弥陀仏はそのような命に生きている人間をこそ救って下さるのです。

(筆・釈裕香)

2022年11月の同朋の会

 報恩講を終えての同朋の会となりました。
今一度、住職と共に「報恩」ということについて確認していきました。
 「報恩」という恩に報いるというこころの先には「知恩」ということがあります。恩を知るから報いるということが出てくる訳です。
 念仏の仏道と出遇うということは、無常の世の中で流れ移ろうものを頼りにして生きている自分の身に気付くことです。阿弥陀仏、諸仏に知らされて気付き、応えていく。「南無阿弥陀仏」を賜り称えていく。それが真宗門徒の原点、「知恩」と「報恩」ではないでしょうか。
 そして人間は忘れて思い出す生き物です。1年に1度の報恩講、或いはそれぞれのご法事など、折に触れて仏事に参加していくことも大切なことです。

(筆・釈裕香)

報恩講 11月3日

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今年の報恩講も快晴の日でした。


コロナ禍、出席して下さった方々、お疲れ様でした。

下記の通り滞りなく進行出来ました。

1.坊守挨拶 
2.真宗宗歌 
3.勤行 正信偈 念仏 和讃 回向 御文 
4.法話 蒲 信一師(三浦組浄榮寺住職)
5.住職挨拶、恩徳讃

 講師として来てくださった蒲信一先生から、親鸞聖人と蒲先生の恩師であられる和田稠先生の二人の晩年を例に挙げて、浄土に生きるということについてお話をいただきました。その話をわたしなりにまとめつつ、わたくし釈裕香の所感を書いていきます。


「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」


 法然上人と出遇って本願に帰した親鸞聖人も84歳の時、息子である善鸞を義絶した後、苦悩の日々が続き、よく眠れぬ夜を過ごしていました。
 その日々の中で或る夜、夢告を受けます。


「康元二歳丁巳二月九日夜 寅時夢告云
弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」


 この夢告を受け、息子を義絶して苦悩していた親鸞は再び活力を取り戻し、最晩年の執筆活動に情熱を燃やします。
 またこの夢告があった二月九日は法然上人の元で共に活動していた安楽房が六条の河原で断首されて50年の日です。
 関東の人々の教えの混乱を沈めるため息子をアテにして、結果的に義絶事件が起こり、自らを取り巻く人間関係に大いに悩んでいた親鸞聖人にとってまさに安楽房から叱責を受けたと感じたのではないでしょうか。

 私達人間は世俗の中で流されて生きています。周りの人間関係、自らの健康、人によって取捨される価値観を頼りにして生きています。しかし世俗のものは変わりやすく相対で絶対ではありません。その結果、私達はアテにしていた世俗のものに振り回されるのです。
 そして浄土に生きるということは、常住不変の諸仏如来の導きのもと、念仏の仏道に生きるということです。浄土に生きるというものになれば自らの健康状態も問題にはなりません。晩年に多くの著書を遺した親鸞聖人、癌を患ってからも精力的に御法話の行脚に勤しんだ和田先生、お二人の姿が浄土に生きる存在として蒲先生の目には重なって映ったのではないでしょうか。
 人は他人との関わり合いの中で生き、時間と共に老いていきます。時には自分自身や自分を取り巻くものによって大きく振り回されて苦悩し迷うでしょう。その迷いの生活の中でこそ、阿弥陀如来の摂取不捨の利益、南無阿弥陀仏の教えが私達人間にはたらいて下さいます。
 報恩講の日に浄土に生きるというお話をしてくださった蒲先生に改めて感謝の意を示すと同時に、私自身、自分の生き方について向き合える機縁に恵まれたことを幸せに感じます。

(筆・釈裕香)

2022年7月の同朋の会

昨今、安倍元総理銃撃事件を取っ掛かりに、カルトや霊感商法ということが連日テレビ等で討論されています。
もし仮に皆さんのそれぞれの人生の中で、仕事がうまくいかなかったり、病気を患ったり、身内が不幸に見舞われたとき、ご先祖様の供養が足りない等言われたらどうしますか。心が弱っているとき、追善供養を強要する誘い文句を跳ね返せますか。大変重要な問題でございます。

一般的な感覚は生きている私から亡くなった方・仏様に供養等差し向けるというものでしょう。しかし真宗では仏様から生きている私におはたらきに下さると教えられています。私が病気になったら先祖の供養が足りないのではなく、私が病気なってまでも仏様が私に気付かせたいものは何だろうという考えです。

銃殺といういたましい事件が起こりましたが、これを機会に対霊感商法ということについて考えてみてはいかがでしょうか。