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報恩講 11月3日

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今年の報恩講も快晴の日でした。


コロナ禍、出席して下さった方々、お疲れ様でした。

下記の通り滞りなく進行出来ました。

1.坊守挨拶 
2.真宗宗歌 
3.勤行 正信偈 念仏 和讃 回向 御文 
4.法話 蒲 信一師(三浦組浄榮寺住職)
5.住職挨拶、恩徳讃

 講師として来てくださった蒲信一先生から、親鸞聖人と蒲先生の恩師であられる和田稠先生の二人の晩年を例に挙げて、浄土に生きるということについてお話をいただきました。その話をわたしなりにまとめつつ、わたくし釈裕香の所感を書いていきます。


「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」


 法然上人と出遇って本願に帰した親鸞聖人も84歳の時、息子である善鸞を義絶した後、苦悩の日々が続き、よく眠れぬ夜を過ごしていました。
 その日々の中で或る夜、夢告を受けます。


「康元二歳丁巳二月九日夜 寅時夢告云
弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」


 この夢告を受け、息子を義絶して苦悩していた親鸞は再び活力を取り戻し、最晩年の執筆活動に情熱を燃やします。
 またこの夢告があった二月九日は法然上人の元で共に活動していた安楽房が六条の河原で断首されて50年の日です。
 関東の人々の教えの混乱を沈めるため息子をアテにして、結果的に義絶事件が起こり、自らを取り巻く人間関係に大いに悩んでいた親鸞聖人にとってまさに安楽房から叱責を受けたと感じたのではないでしょうか。

 私達人間は世俗の中で流されて生きています。周りの人間関係、自らの健康、人によって取捨される価値観を頼りにして生きています。しかし世俗のものは変わりやすく相対で絶対ではありません。その結果、私達はアテにしていた世俗のものに振り回されるのです。
 そして浄土に生きるということは、常住不変の諸仏如来の導きのもと、念仏の仏道に生きるということです。浄土に生きるというものになれば自らの健康状態も問題にはなりません。晩年に多くの著書を遺した親鸞聖人、癌を患ってからも精力的に御法話の行脚に勤しんだ和田先生、お二人の姿が浄土に生きる存在として蒲先生の目には重なって映ったのではないでしょうか。
 人は他人との関わり合いの中で生き、時間と共に老いていきます。時には自分自身や自分を取り巻くものによって大きく振り回されて苦悩し迷うでしょう。その迷いの生活の中でこそ、阿弥陀如来の摂取不捨の利益、南無阿弥陀仏の教えが私達人間にはたらいて下さいます。
 報恩講の日に浄土に生きるというお話をしてくださった蒲先生に改めて感謝の意を示すと同時に、私自身、自分の生き方について向き合える機縁に恵まれたことを幸せに感じます。

(筆・釈裕香)

2022年7月の同朋の会

昨今、安倍元総理銃撃事件を取っ掛かりに、カルトや霊感商法ということが連日テレビ等で討論されています。
もし仮に皆さんのそれぞれの人生の中で、仕事がうまくいかなかったり、病気を患ったり、身内が不幸に見舞われたとき、ご先祖様の供養が足りない等言われたらどうしますか。心が弱っているとき、追善供養を強要する誘い文句を跳ね返せますか。大変重要な問題でございます。

一般的な感覚は生きている私から亡くなった方・仏様に供養等差し向けるというものでしょう。しかし真宗では仏様から生きている私におはたらきに下さると教えられています。私が病気になったら先祖の供養が足りないのではなく、私が病気なってまでも仏様が私に気付かせたいものは何だろうという考えです。

銃殺といういたましい事件が起こりましたが、これを機会に対霊感商法ということについて考えてみてはいかがでしょうか。

2022年6月の同朋の会

 今回は池田勇諦先生の慶讃法要お待ち受け大会の講演を振り返りつつ進行しました。
 池田先生が我々に、立教開宗・親鸞聖人のご誕生が問題になってますか、慶讃する心がありますかと問いかけられました。
親鸞聖人にとっての立教開宗は仏教の中の一部の浄土真宗というものではございません。浄土真宗によって仏教史観が開顕され、本当に一切経を読み取る眼を得るということです。
 言い換えれば、浄土真宗が根本経典とする浄土三部経がすべての仏教を包み込むんでいるのです。過去仏、釈尊、龍樹、…と脈々と続く仏教の流れは悪衆生たる私1人に南無阿弥陀仏を伝える為であると親鸞聖人は感応しているのです。
 また池田先生は南無阿弥陀仏は存在論であるとおっしゃいました。親鸞聖人にとって南無阿弥陀仏は仏道を歩む方法論ではなく、仏道を歩む主体そのものでした。
 日常において私たちは自我、私に立って生活しています。自分中心のものの見方で生活していて、自分の都合で己のものさしも時々で変わります。相対の世界で生きています。
 阿弥陀の浄土は比べる必要の無い絶対不変の世界です。良い悪いの条件をつけなくてそれぞれがそれぞれのまま尊重される世界です。
 人間は仏智に照らされたとき、自分自身を中心に生きている己が身に気付けます。そして人間と仏智を繫ぐのは南無阿弥陀仏、お念仏です。阿弥陀様のおはたらきの中で私は自分に気付けるのです。
人生転ぶ先々で仏智に照らされたとき、自ずと慶喜奉讃の心が湧いてくるのではないでしょうか。

(筆・釈裕香)

6月18日14時から同朋の会を予定

寒暖差が激しく、ゲリラ豪雨にも見舞われる季節がやってまいりました。参加希望の方は体調に気を付け、ご参加ください。