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2022年6月の同朋の会

 今回は池田勇諦先生の慶讃法要お待ち受け大会の講演を振り返りつつ進行しました。
 池田先生が我々に、立教開宗・親鸞聖人のご誕生が問題になってますか、慶讃する心がありますかと問いかけられました。
親鸞聖人にとっての立教開宗は仏教の中の一部の浄土真宗というものではございません。浄土真宗によって仏教史観が開顕され、本当に一切経を読み取る眼を得るということです。
 言い換えれば、浄土真宗が根本経典とする浄土三部経がすべての仏教を包み込むんでいるのです。過去仏、釈尊、龍樹、…と脈々と続く仏教の流れは悪衆生たる私1人に南無阿弥陀仏を伝える為であると親鸞聖人は感応しているのです。
 また池田先生は南無阿弥陀仏は存在論であるとおっしゃいました。親鸞聖人にとって南無阿弥陀仏は仏道を歩む方法論ではなく、仏道を歩む主体そのものでした。
 日常において私たちは自我、私に立って生活しています。自分中心のものの見方で生活していて、自分の都合で己のものさしも時々で変わります。相対の世界で生きています。
 阿弥陀の浄土は比べる必要の無い絶対不変の世界です。良い悪いの条件をつけなくてそれぞれがそれぞれのまま尊重される世界です。
 人間は仏智に照らされたとき、自分自身を中心に生きている己が身に気付けます。そして人間と仏智を繫ぐのは南無阿弥陀仏、お念仏です。阿弥陀様のおはたらきの中で私は自分に気付けるのです。
人生転ぶ先々で仏智に照らされたとき、自ずと慶喜奉讃の心が湧いてくるのではないでしょうか。

(筆・釈裕香)

6月18日14時から同朋の会を予定

寒暖差が激しく、ゲリラ豪雨にも見舞われる季節がやってまいりました。参加希望の方は体調に気を付け、ご参加ください。

2022年5月の同朋の会

2023年は親鸞聖人の誕生850年、立教開宗800年です。その慶讃法要のテーマについて考えていきました。


  南無阿弥陀仏
  人と生まれたことの意味をたずねていこう


来年の慶讃法要のテーマは以前のテーマとは違い、「南無阿弥陀仏」が掲げられています。
「南無阿弥陀仏」、念仏は真宗門徒にとって最も尊い、御本尊です。今までの慶讃法要のテーマの言葉の中には用いられていませんでしたが、真宗門徒にとっては念仏は言うまでもなく根本であります。だからかつてのテーマにはそれぞれ先立って、明言されていないだけで「南無阿弥陀仏」があったのだと考えられます。

なぜ今まで明言されなかったことが言及されたのでしょうか。この日、住職は昨今の真宗門徒が「南無阿弥陀仏」さえも私物化していないかという危機感から明言されたんだという考えを挙げました。

また住職は全ての娑婆の出来事、我欲と我欲のぶつかり合う争いの絶えない世界の出来事に先立って、阿弥陀如来の大悲「南無阿弥陀仏」があるのではないかと言いました。
私に先立って「南無阿弥陀仏」がある。「南無阿弥陀仏」が私と浄土をつなぐ。念仏があってはじめて無明闇の中にいる私に気付させていただく。如来からの大悲に引き当てられて、はじめて自分を感じる。念仏との出遇いのよって私たち衆生ははじめて娑婆に生きる自分に気付かされるのです。

しかしその「南無阿弥陀仏」をも自分のものとして取り込んでしまいうるのが私たち娑婆に生きる存在です。かつての慶讃法要のとき、もっと遡れば親鸞聖人が生きていた時代も念仏者は自分が念仏を私物化する問題を抱えていたのだろうと思います。

人間は答えを握りたい存在です。答えを握り、自分が正義という立場に立ったとき、「正す」という行為を以て、誰かを傷つけ、害を為します。
念仏はその様な在り方の自分に気付かせて下さいます。しかし念仏と出遇えば全て解決ということではございません。そして新しい自分がはじまる訳でもございません。今まで通りの自分なんだけれども、傷付け傷付け合う世界にいま存在している自分に気付かされて生きていく。それが念仏を根本とする生き方なのではないかなと感じております。あくまで私たちは阿弥陀如来によって気付かされていく存在です。自分で気付いたと履き違えたらそれこそ念仏の私物化です。答えを握り、過ちを犯す第一歩です。

今回、親鸞聖人生誕850年、立教開宗800年の慶讃法要のテーマに「南無阿弥陀仏」が明言さえたのは、やはり私も念仏者の念仏の私物化に対する危機感からと、念仏を根本とする生活の確認の思いが込められていると感じます。


(筆 ・ 釈裕香)

2022年4月の同朋の会

同朋新聞5月号題材に、南無阿弥陀仏を考えていきました。

門徒さんから以下の言葉を頂きました。

何が何だか意味は分からないけど南無阿弥陀仏

痛烈一閃、この言葉こそ真宗を表していると受け止めました。
意味や由来、解釈は学びたい人が、出来るときに、余裕がある時に学べればよいのです。
深く学ばないと救われないということは一切ありません。いつでもどこでも誰にでも、お念仏の仏道は開かれるのです。それが如来様に身を任せる他力の仏道なのです。念仏を称えれば救われる生き方なのです。


(筆 ・ 釈裕香)