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2023年7月の同朋の会

 7月13、14、15日はお盆でした。今回はお盆を終えて改めて故人の受け止め方・いただき方を考えていきました。
 日本人が想像するお盆は祖霊信仰と結びついていると思われます。祖先を大事にすることは大切なことです。しかし祖先を「祖霊」、つまり霊的存在として受け止めることはどういうことになるのでしょうか。
 よくよく考えてみると祖先の「霊」を追善供養し冥福を祈ることは、祖先を敬う見返りに除災招福という結果を望む発想です。この世で悪いことが起きたり続いているのはあの世が荒れていてるからだという発想にも通じています。だから私から霊に対して「〜がうまくいきますように」「悪いことが起こりませんように」という願いが向かっている構図がよく見られることかと思います。
 それに対して真宗では祖先のことを「諸仏」、仏様としていただきます。諸仏の方々は先立ってこの上ない阿弥陀の浄土に往かれましたので、追善供養する必要はありません。また祖霊信仰ですと私から亡き方に様々なことをお願いするのですが諸仏といただく真宗ではそれとは逆です。仏様方は絶えず生きている私たちのことを心配しておられるのです。
 ただ生きている私たちは日常生活の中で心静かに祖先の方々と向き合える時間は多くはありません。ですから真宗門徒にとってのお盆とは一旦、日常から離れて先祖の方々を思い偲びつつ真向かう1つの機縁なのです。
 お墓参りでもそうです。墓地に足を運び亡き方を思い出し偲ぶと同時に仏様の教えに出遇う機縁でございます。真宗の墓石は古いものですと「〜家之墓」という形もありますが、「南無阿弥陀仏」という字を彫っている形が正式です。お墓に行って、洗って、手を合わせ拝むのは「南無阿弥陀仏」という名号です。それはお墓に来て名号を拝んて下さいという諸仏の方々からの願いでございます。
 「南無阿弥陀仏」という名号・お念仏に普段日常生活の中でどれほど目にして口にして手を合わせているでしょうか。そして私たちはどれほど「南無阿弥陀仏」に救いを感じ、阿弥陀様や諸仏となられた先祖の方々に感謝の気持ちを抱いているでしょうか。お墓参りは先祖に導かれ名号に手を合わせ、いま私はどう生きているかと自分と向き合う機会でもございます。
 

 日本人には祖霊信仰や霊的存在への畏れからの敬いが身に染み付いているかと思われます。しかし私たちが霊信仰に振り回されていても諸仏の方々はその先から心配しておられるのです。
 また私から霊的存在にいろいろお願いする姿勢は自力の姿勢に通じております。生きていく中で自力の姿勢はうまくいってるときは自分の中では問題になりません。ですが人生がずっと思い通りにならないように躓くときがたくさんあります。躓いたときに故人への態度さえ自力の姿勢ですと、誰かに足元を掬われるかもしれません。そうならない為にもお盆や法要などその時々の機縁で、諸仏の方々からの願いに耳を傾けようとすることが大切なのです。


(筆・釈裕香)

2023年6月の同朋の会

 

 同朋会は新たに参加される方を喜んでお迎えします

 
 何かの折に「何宗ですか?」と聞かれたら、ご門徒の皆さんは「浄土真宗です」と答えられますよね。ところで浄土真宗とは一体何でしょうか?世間に名告っている教団名ではありますが、ただそれだけのことでしょうか?
 「浄土真宗」…文字通りの、浄土を真の宗とする、生き方です。ではそれはどういうことなのでしょうか?そもそも「浄土」はどこか遠くにある手の届かないところではありません。「浄土」は苦しみのない、迷いなき世界です。なぜなら私たち凡夫のように比べることをしない、況や比べること自体が存在しない世界だからです。
 私たちがいるこの苦しみ多き人間世界「娑婆世界」の中で私たち凡夫は、自分たちの思いに囚われて、常に真実の眼で物事を見ることは出来ません。その時代や環境の影響を受け、自分の思い・ものさしで物事をみるから苦しみが生じるのです。常に比べているのです。それが差別へと発展します。


凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。(『一念多念文意』)


 厳しいですけれど親鸞聖人は私たち凡夫の姿を言い当てて下さってます。「念仏成仏是真宗」、苦しみ多き私たちを離れて浄土真宗は存在しません。私たちや私たちの社会の迷いに気付いてほしい、浄土からの呼び掛けに耳を澄まし自身を見つめ直すことが浄土真宗を名告る門徒の姿なのです。
 同朋会は教学を学ぶことだけを目的としていません。ご一緒に聞法していきましょう。気付くことが大切ですよね。

(筆・西福寺坊守 釈尼育英)

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もうすぐお盆を迎えます。(7/13木〜7/15土)
どうぞ、暑さ対策なされてお参り下さいませ。  

2023年5月の同朋の会

 先日の慶讃法要団体参拝のとき、比叡山で昼食を食べたました。そのとき山の僧侶が「山の環境で静かに修行して精進料理を食べる生活に親鸞聖人は感動したのでは」という旨のお話をしていたのですが、これは大きな誤りでございます。
 親鸞聖人はむしろ比叡山での生活には感動出来なかった人でございます。自力で修行をしても煩悩消えず菩薩道成就せず、苦悩の果てに六角堂に百日参り仏様より夢告を受け、29歳のとき遂に法然上人に出遇います。この法然上人との出遇いが親鸞聖人にとっての感動でした。


  しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の歴、雑行を棄てて本願に帰す。


 『教行信証』の後序の有名な一文です。簡単に訳すと「わたくし親鸞は29歳のときに、自力修行の道を棄てて本願念仏をいただく道に帰依する」です。法然との出遇いについてとても力強い言葉で語られています。自力修行の道を捨てるのではなく棄てるのです。捨てるならば拾うこともありましょう。ですが「棄」はなげすてるという意味です。廃棄や死体遺棄といった言葉が例に挙がるでしょう。つまり棄てるならば拾うことはありません。あえて「棄」の字を用いたのは親鸞聖人の自力を棄てて他力に帰すという強い決意の表明だと受け止めています。
 いつでもどこでもだれでも念仏すれば、阿弥陀仏によって、救われていく念仏の仏道…法然上人との出遇いによって親鸞聖人にもたらされたただ念仏の教えは親鸞聖人に大きな感動を与えると共にその後の人生において彼の大きな原動力になっていきます。それは流罪された後の関東での活動、数々の遺された執筆から感じることが出来ます。


(筆・釈裕香)

2023年4月の同朋の会

 慶讃法要を目前に控えたこの回では真宗、南無阿弥陀仏の仏教に出遇うとどうなっていくのかという課題を皆さんと考えていきました。
 親鸞聖人は『高僧和讃』で


  本願力にあいぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて
  煩悩の濁水へだてなし


という偈を残されています。本願力にあうというのは念仏の仏道に遇うということです。本願「力」でありますから力がはたらいています。また本願力は仏様からのはたらきかけ、他力でございます。他力が煩悩具足の凡夫たる私にはたらいた結果、私は念仏の仏道に遇うことが出来た。そして親鸞聖人は念仏の仏道と出遇った感動をこの偈では「むなしくすぐるひとぞなき…」と続けて表現しているのです。
 さて、人が南無阿弥陀仏と出遇うとどうなっていくのでしょうか。私が変わるのか?性格が変わるのか?意識改革・道徳規範・精神鍛錬といったものなのでしょうか?
 意識改革や精神鍛錬という行動は「何々しよう」として自分が混じる能動的動作、自力でございます。自分混じりでありますから不安定で変わっていくものです。他力というのは自力のはからいを超えていくはたらきです。私自身が何かをして自分を変えようとするのではありません。むしろ私自身はアクションを起こさないけれど、私を支える土台がしっかりとする。無常の世に生きながら、不変の宗に目覚める。そのように他力がはたらいた結果を人は知覚し感じるのでしょう。
 親鸞聖人は煩悩の濁水は無くなるとは言っていません。濁水はへだてをなくして功徳の宝海の中にあると言っています。このことをよくよく頭の片隅に入れて、生活していきたいですね。   

(筆・釈裕香)