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2023年5月の同朋の会

 先日の慶讃法要団体参拝のとき、比叡山で昼食を食べたました。そのとき山の僧侶が「山の環境で静かに修行して精進料理を食べる生活に親鸞聖人は感動したのでは」という旨のお話をしていたのですが、これは大きな誤りでございます。
 親鸞聖人はむしろ比叡山での生活には感動出来なかった人でございます。自力で修行をしても煩悩消えず菩薩道成就せず、苦悩の果てに六角堂に百日参り仏様より夢告を受け、29歳のとき遂に法然上人に出遇います。この法然上人との出遇いが親鸞聖人にとっての感動でした。


  しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の歴、雑行を棄てて本願に帰す。


 『教行信証』の後序の有名な一文です。簡単に訳すと「わたくし親鸞は29歳のときに、自力修行の道を棄てて本願念仏をいただく道に帰依する」です。法然との出遇いについてとても力強い言葉で語られています。自力修行の道を捨てるのではなく棄てるのです。捨てるならば拾うこともありましょう。ですが「棄」はなげすてるという意味です。廃棄や死体遺棄といった言葉が例に挙がるでしょう。つまり棄てるならば拾うことはありません。あえて「棄」の字を用いたのは親鸞聖人の自力を棄てて他力に帰すという強い決意の表明だと受け止めています。
 いつでもどこでもだれでも念仏すれば、阿弥陀仏によって、救われていく念仏の仏道…法然上人との出遇いによって親鸞聖人にもたらされたただ念仏の教えは親鸞聖人に大きな感動を与えると共にその後の人生において彼の大きな原動力になっていきます。それは流罪された後の関東での活動、数々の遺された執筆から感じることが出来ます。


(筆・釈裕香)

2023年4月の同朋の会

 慶讃法要を目前に控えたこの回では真宗、南無阿弥陀仏の仏教に出遇うとどうなっていくのかという課題を皆さんと考えていきました。
 親鸞聖人は『高僧和讃』で


  本願力にあいぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて
  煩悩の濁水へだてなし


という偈を残されています。本願力にあうというのは念仏の仏道に遇うということです。本願「力」でありますから力がはたらいています。また本願力は仏様からのはたらきかけ、他力でございます。他力が煩悩具足の凡夫たる私にはたらいた結果、私は念仏の仏道に遇うことが出来た。そして親鸞聖人は念仏の仏道と出遇った感動をこの偈では「むなしくすぐるひとぞなき…」と続けて表現しているのです。
 さて、人が南無阿弥陀仏と出遇うとどうなっていくのでしょうか。私が変わるのか?性格が変わるのか?意識改革・道徳規範・精神鍛錬といったものなのでしょうか?
 意識改革や精神鍛錬という行動は「何々しよう」として自分が混じる能動的動作、自力でございます。自分混じりでありますから不安定で変わっていくものです。他力というのは自力のはからいを超えていくはたらきです。私自身が何かをして自分を変えようとするのではありません。むしろ私自身はアクションを起こさないけれど、私を支える土台がしっかりとする。無常の世に生きながら、不変の宗に目覚める。そのように他力がはたらいた結果を人は知覚し感じるのでしょう。
 親鸞聖人は煩悩の濁水は無くなるとは言っていません。濁水はへだてをなくして功徳の宝海の中にあると言っています。このことをよくよく頭の片隅に入れて、生活していきたいですね。   

(筆・釈裕香)

2023年3月の同朋の会

 今回は3つの課題を皆さんと考えていきました。


  ありのままの自分は好きですか
  誰とでも仲良くなれますか
  人間何のために生きていますか


 これらの課題に対して、自分を通して問うていく。大変大切なことです。自己肯定の問題・差別の意識・自らの存在意義、忙しい日常生活を送っているうちは表面には出てこない問いかもしれません。しかし、人間生きていれば、ふとした隙間にこういった問いを避けては通れないと思います。
 繰り返しますが大切なのは問い続けたずねていくことです。そして答えを出すことは非常に危ういことです。自分が出す答えには、その時その場の自身の想いが入ります。ですからどんな状況、どんな時分にも対応出来るものではなく、状況に応じてコロコロ変わっていくものです。ましてや自分の中で出したと思っている答えに固執すると、それが通用しなくなる度に自分自身が不安定になってしまいます。いわゆる「分かったつもり」状態ですね。
 また「たずねていく」ということはどこ「に」たずねていくかということが重要になっていきます。釈尊は涅槃の際に


  法に依りて人に依らざるべし
  義に依りて語に依らざるべし
  智に依りて識に依らざるべし
  了義経に依りて不了義に依らざるべし


と四依の教えを残しています。仏法は純一ですが、人は一人ひとり違う上に変化していくものです。またここでいう「義」というのは争いの余地がない真の仏義を指します。語はそれを伝える手段に過ぎません。智は仏智であり、識は情識です。情識には人の想いが入ります。了義経は円かに仏の義を説いた経説です。そして親鸞聖人は私たち凡夫に「南無阿弥陀仏」の仏道を伝え明かしました。
 目まぐるしく変わり続ける娑婆に私たちは生きています。当然私たちは生きている限り変わっていきますし、私たちが抱く想いも状況によって変わっていきます。それに対して仏様がおられる浄土は不変です。阿弥陀の浄土から垂れている念仏の仏智もまた不変です。しかも阿弥陀如来、諸仏如来は衆生を救わんと常に我々を照らして下さってます。
 なに「に」どこ「に」たずねていくか。もし「南無阿弥陀仏」に知恩し、報恩の想いあれば、浄土を根本として歩まんと思わざるを得ないでしょう。


(筆・釈裕香)

2023年2月の同朋の会

 今月も親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年の慶讃法要のテーマ


  南無阿弥陀仏
  人と生まれた意義と生きる喜びを見つけよう


というテーマを中心に考えていきました。
 テーマに先立って「南無阿弥陀仏」があります。このことは生きる喜びや意義を自分のものさしで見つけようとするのではなく、南無阿弥陀仏を根本にしてたずねていくことを明確にしています。さらにテーマの後ろにも南無阿弥陀仏がくっついているのではないかと住職は意見を出しました。
 先立って南無阿弥陀仏があって、締め括りでも南無阿弥陀仏に摂まっていく。言い換えれば南無阿弥陀仏と称えれば、阿弥陀仏の誓願によって私たち衆生が摂めとられて溢れることなく救われていく。龍樹菩薩は「即時入必定」といい、曇鸞大師は「入正定聚之数」といいました。さらに親鸞聖人は「仰いでこれを憑むべし」と我々に語りかけています。「正定聚」というのは念仏称えて信心獲れば、往生すべき身と定まることです。今までに阿弥陀仏の浄土に往かれた諸仏の方々と等しいとも親鸞聖人は言い切ってます。人が死ぬその瞬間だけの問題では無くなる訳です。既に阿弥陀仏によって約束された身だからこそ、これまでも、今も、これからも、南無阿弥陀仏を通して自分自身と向き合い、聞法し悩んでいくのです。また信楽を獲ることは難の中の難です。そのことについてはまたいずれ何処かで聞法していきましょう。


(筆・釈裕香)