今回は3つの課題を皆さんと考えていきました。
ありのままの自分は好きですか
誰とでも仲良くなれますか
人間何のために生きていますか
これらの課題に対して、自分を通して問うていく。大変大切なことです。自己肯定の問題・差別の意識・自らの存在意義、忙しい日常生活を送っているうちは表面には出てこない問いかもしれません。しかし、人間生きていれば、ふとした隙間にこういった問いを避けては通れないと思います。
繰り返しますが大切なのは問い続けたずねていくことです。そして答えを出すことは非常に危ういことです。自分が出す答えには、その時その場の自身の想いが入ります。ですからどんな状況、どんな時分にも対応出来るものではなく、状況に応じてコロコロ変わっていくものです。ましてや自分の中で出したと思っている答えに固執すると、それが通用しなくなる度に自分自身が不安定になってしまいます。いわゆる「分かったつもり」状態ですね。
また「たずねていく」ということはどこ「に」たずねていくかということが重要になっていきます。釈尊は涅槃の際に
法に依りて人に依らざるべし
義に依りて語に依らざるべし
智に依りて識に依らざるべし
了義経に依りて不了義に依らざるべし
と四依の教えを残しています。仏法は純一ですが、人は一人ひとり違う上に変化していくものです。またここでいう「義」というのは争いの余地がない真の仏義を指します。語はそれを伝える手段に過ぎません。智は仏智であり、識は情識です。情識には人の想いが入ります。了義経は円かに仏の義を説いた経説です。そして親鸞聖人は私たち凡夫に「南無阿弥陀仏」の仏道を伝え明かしました。
目まぐるしく変わり続ける娑婆に私たちは生きています。当然私たちは生きている限り変わっていきますし、私たちが抱く想いも状況によって変わっていきます。それに対して仏様がおられる浄土は不変です。阿弥陀の浄土から垂れている念仏の仏智もまた不変です。しかも阿弥陀如来、諸仏如来は衆生を救わんと常に我々を照らして下さってます。
なに「に」どこ「に」たずねていくか。もし「南無阿弥陀仏」に知恩し、報恩の想いあれば、浄土を根本として歩まんと思わざるを得ないでしょう。
(筆・釈裕香)