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2024年8月の同朋の会

  「天命に安んじて人事を尽くす」 


 当宗派の近代教学の祖である、清沢満之師の言葉です。当時不治の病であった結核を患い、病の身での生活の中から発されました。浄土真宗に力強く頷かれた、これぞ真宗という表現ですね。阿弥陀さまによって定まる世界に目覚めたなら、安心して迷える、安心して失敗できる。そしてその人のすべきことに尽力できる。結果に惑わされることはありません。そこにはホッとする温かさを感じます。 
 世間では、「人事を尽くして天命を待つ」が一般的です。一見似たように思えるかもしれませんが、意味は全く違います。この場合、人事を尽くす、にはその人の目標があり、それに向かってやる事をやり尽くした後は結果を待つ。いわゆる世間の美徳感から出た表現でしょう。目標があるから 周囲からの期待も含まれます。自分の中に既に良い結果を期待している部分があるのに、うまくいかなかった時 どうなるのでしょう。当然周囲の反応も気になるでしょう。自分に自信がある時に使う表現なのかもしれません。常に頭を上げて前に進んでいく姿があります。ここには温かさは感じられません。
 私達の生活の中心に 頭を下げ手を合わせお念仏を称える習慣があれば、自ずと後者の表現ではなくなるのではないでしょうか。


(筆・坊守 釋尼育英)

2024年7月の同朋の会

 浄土真宗は浄土を真の宗(むね)として、生活の根本としていただいていく生き方です。
 その「浄土」ですが、一般的に多い認識はこの世とは別にあの世としての浄土や地獄があるというものです。
 しかし真宗の「浄土」のいただき方は違います。パラダイスのような自分の想いをかなえてくれる世界ではないです。真宗における浄土とは本当の自分の姿が照らし出される世界です。
 私たち人間は日常の中で我欲・煩悩にまみれています。自分の中の優劣や好き嫌い等の価値観にこだわって生きている以上は必ず日常が地獄になります。ものさしを振り回して傷つけ合うことや違う価値観同士で争いごとになることが起こるのです。その上、煩悩にまみれている故に自分の有り様に中々気付けません。
 このような煩悩熾盛の存在である私たち人間ですけれども、いつでもどこでも阿弥陀如来や諸仏の方々は私たちにはたらきかけて下さっています。比べる必要のない阿弥陀の浄土をもって、それぞれの価値観を押し付け合って地獄に生きている私たちを照らして下さるのです。
 そして迷っていることすら分からない自分が、地獄に生きていると気付けることに恵まれたならば、「浄土」は本当に手を合わせる世界になりますでしょう。

(筆・釋裕香)

2024年6月の同朋の会

「ご冥福をお祈りします」


 この言葉に皆さん覚えがありますでしょう。誰かが亡くなられたときに自分が言ったり、テレビで芸能人が亡くなったニュースが流れたときにアナウンサーが言うのを聞いたり、馴染みがあると思います。
 しかしながら「ご冥福をお祈りします」という言葉に明確に意味を定義して使っている人は多くはないと思います。なんとなく人が亡くなられたときに使う挨拶みたいな言葉だから使っているんじゃないでしょうか。その「なんとなく」という感覚も自分が育って来た中で形成された「あの世観」が下地になっていると思います。
 「あの世観」とは死後の世界に対する見方の1つです。死後の世界が実際にあるかは誰も分かりませんが、頭の中でこの世に対してあの世があるという対立関係が成立している考え方です。この考えは教えらてきた道徳、例えば悪いことをしたら地獄に落ちる、や文学や漫画などの創作物から育まれてきたものです。
 さて「あの世観」なのですが、この考え方は暫しあの世がこの世を支配しているという考え方に通じていきます。現実の世界で上手くいかないとき、不幸が続いたときにその原因をあの世に求めてしまうのです。あるいは辛い状況に置かれた自分の心のやすらぎの為にあの世に助けを求めてしまうことも起こり得ます。そうなってしまったら迷いが更に深まるでしょう。
 真宗に生きていく中での気付きのひとつは「あの世観」に振り回されている自分に気付くことです。しばし浄土とあの世を一緒に考えている人がいますが、それは誤りです。浄土の世界は往生する世界です。死んでいくのではなく生まれていく世界です。親鸞聖人が言う「往生定まる身となる」は迷っている自分の生き方がはっきりして見えてくるということです。
 迷っている昨日までの私が死に、新しい私が生まれる。仏教ではこのことを「回心」と言いますが、「回心」は仏様の他力のはたらきあってのことです。欲や想いが混じった自分の力では気付けません。
 今回は「あの世観」から真宗の生き方や往生についてを住職の話を聞きながら確かめていきました。また機会があれば浄土と往生について皆さんと共有していきたいですね。


(筆・釋裕香)

2024年5月の同朋の会

 今回は『正信偈』の冒頭2句、末の2句を確かめていきました。
『正信偈』は


帰命無量寿如来 南無不可思議光


 という冒頭から始まります。「帰命」は生活の根本とするという意味です。「無量寿如来」ははかりしれないいのちの仏様を意味し、これは別の言い方での阿弥陀仏です。「南無」は帰命と同じ意味です。そして「不可思議光」ははかりしれないひかりの仏様を意味し、これも別の言い方での阿弥陀仏です。
 つまり親鸞聖人は『正信偈』の冒頭2句で「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と言葉を変えて繰り返しいるのです。
 なぜ『正信偈』をつくるにあたって念仏を繰り返して始めたのでしょうか。確かめられることの1つの手掛かりが親鸞聖人が『正信偈』を書く前に記した言葉にあります。


しかれば大聖の真言に帰し、
大祖の解釈に閲して、
仏恩の深遠なるを信知して、正信念仏偈を作りて曰わく、
帰命無量寿如来 南無不可思議光


 翻訳すると、釈尊の「南無阿弥陀仏」の仏道に帰命せよという勅命に従い、七高僧たちの解説書を読んで、煩悩具足の凡夫たる私、親鸞1人のためにインドから中国から日本と数え切れない時間を通して「南無阿弥陀仏」が伝えられ届けられた。この仏恩のいかに深遠なるか、また念仏の教えが何千年と経ってこの私にはたらいていると気付かされてますます信じざるを得ない。この事実に深く感動して『正信偈』を作りて曰く、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏…という内容です。
 偈文をつくるにあたっての親鸞の感動、念仏道に帰すという表明が綴られています。ですから仏恩に対する報恩や念仏の仏道に生きるという表明から『正信偈』は「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」とはじまっていると受け止められます。

 また今回は『正信偈』の末の2句も確かめていきました。冒頭2句から先は阿弥陀仏の謂れや七高僧のお仕事がうたわれています。それらの偈文を経て最後にうたわれるのが、


道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説


 という2句です。中身は僧分であれ普通の人であれ『正信偈』を読んだ皆さん、共に阿弥陀様のお心をいただく身となって、ただ先達から伝えられた念仏の教えを二心なく受け入れていきましょうという親鸞聖人からの熱いエールです。

 『正信偈』は私たち真宗門徒が1番馴染み深い念仏の教えです。機会や時間に恵まれれば内容を確認していくことは大切なことです。今回は冒頭と末の2句ずつやりましたが、要望があれば同朋の会では他の句も確認していきたいと思います。


(筆・釋裕香)

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