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2024年10月の同朋の会

 今回は11月3日(日)の当山報恩講を前にして、報恩講の意味についてのお話でした。報恩講とは 一言で言えば親鸞聖人のご法事です。「報恩」とは、自分が受けた恩に報いることであり、「講」とは、皆で集い語り合うことです。親鸞聖人のご恩に報いる為に行われる法会なのです。
 では、どんなご恩をいただいたのでしょうか。親鸞聖人は本願念仏に遇われ本願念仏の世界に生きられました。お念仏、南無阿弥陀仏が生活の根本である、私が生きていく上での土台はお念仏、南無阿弥陀仏より他にないことを顕らかにされました。他を土台にしても生きていけると思われますか?人間が考えたもの、作ったものを当てにするとどうなるでしょう?うまくいっている時は良いでしょうが、都合が悪くなったり、うまくいかなくなるとたちまちダメになり、苦しみます。例えば 健康であることを当てにする場合、努力して健康でいられる時は良いですが、事故にあったり病に襲われたらどうですか?それに人間は老いるものですし。財力だってあるほうが良いかも知れませんが、土台にはなりませんよね。
 どんな人にもどんなことがあっても揺るがない中心軸、それはお念仏一つでよいのです。そのことを顕らかにしてくださった親鸞聖人のご恩に報恩講を通して気づきましょう、報いましょう。報恩講は私たち一人一人のために行われるのです。


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 御門徒の皆様へ 
来る11月3日(日) 西福寺報恩講を厳修いたします。万障繰り合わせの上、お越しください。お待ちしています。

(筆・坊守 釋尼育英)

2024年9月の同朋の会

 今回は間もなく迎える彼岸について、彼岸の冊子を基にしたお話でした。
 お彼岸で思いつくのは墓参りですね。彼岸期間には多くの方が墓参りに見えて墓地が色とりどりの花で飾られます。
 ところで彼岸とはどんな意味なのでしょうか?文字通り、彼の岸、向こう岸のことで、輪廻を超えた涅槃の境地、つまり悟りの世界、浄土の世界の事です。それに対し此岸とはこちら側、迷いと悩みの苦の世界、私達が生きている現実世界のことです。
 彼岸の中日は、昼と夜の長さが同じになり、太陽が真東から上り、真西に沈みます。長さが等しいことから、どちらにも偏らない、仏教が説く中道の教えに叶うとされています。
 我欲により分け隔てる苦悩の此岸から、分け隔てのない安楽の彼岸(浄土)を想い手を合わせる時なのです。
 お彼岸に亡き方々(諸仏)を偲びつつ、浄土を想い手を合わせお念仏する。浄土のはたらきにより、私の今の在り方が照らし出され、問われてくる。そんな大切な機縁になることが願われています。


(筆・坊守 釋尼育英)

2024年8月の同朋の会

  「天命に安んじて人事を尽くす」 


 当宗派の近代教学の祖である、清沢満之師の言葉です。当時不治の病であった結核を患い、病の身での生活の中から発されました。浄土真宗に力強く頷かれた、これぞ真宗という表現ですね。阿弥陀さまによって定まる世界に目覚めたなら、安心して迷える、安心して失敗できる。そしてその人のすべきことに尽力できる。結果に惑わされることはありません。そこにはホッとする温かさを感じます。 
 世間では、「人事を尽くして天命を待つ」が一般的です。一見似たように思えるかもしれませんが、意味は全く違います。この場合、人事を尽くす、にはその人の目標があり、それに向かってやる事をやり尽くした後は結果を待つ。いわゆる世間の美徳感から出た表現でしょう。目標があるから 周囲からの期待も含まれます。自分の中に既に良い結果を期待している部分があるのに、うまくいかなかった時 どうなるのでしょう。当然周囲の反応も気になるでしょう。自分に自信がある時に使う表現なのかもしれません。常に頭を上げて前に進んでいく姿があります。ここには温かさは感じられません。
 私達の生活の中心に 頭を下げ手を合わせお念仏を称える習慣があれば、自ずと後者の表現ではなくなるのではないでしょうか。


(筆・坊守 釋尼育英)

2024年7月の同朋の会

 浄土真宗は浄土を真の宗(むね)として、生活の根本としていただいていく生き方です。
 その「浄土」ですが、一般的に多い認識はこの世とは別にあの世としての浄土や地獄があるというものです。
 しかし真宗の「浄土」のいただき方は違います。パラダイスのような自分の想いをかなえてくれる世界ではないです。真宗における浄土とは本当の自分の姿が照らし出される世界です。
 私たち人間は日常の中で我欲・煩悩にまみれています。自分の中の優劣や好き嫌い等の価値観にこだわって生きている以上は必ず日常が地獄になります。ものさしを振り回して傷つけ合うことや違う価値観同士で争いごとになることが起こるのです。その上、煩悩にまみれている故に自分の有り様に中々気付けません。
 このような煩悩熾盛の存在である私たち人間ですけれども、いつでもどこでも阿弥陀如来や諸仏の方々は私たちにはたらきかけて下さっています。比べる必要のない阿弥陀の浄土をもって、それぞれの価値観を押し付け合って地獄に生きている私たちを照らして下さるのです。
 そして迷っていることすら分からない自分が、地獄に生きていると気付けることに恵まれたならば、「浄土」は本当に手を合わせる世界になりますでしょう。

(筆・釋裕香)

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