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2024年3月の同朋の会

 今回は住職の話を聞きながら門徒の皆さんと一緒に「彼岸」と「此岸」を確認していきました。
 門徒の皆さんの話では三途の川を挟んで極楽の世界の「彼岸」、地獄の世界の「此岸」というイメージが挙げられました。
 仏教では極楽浄土は別け隔てのない世界で阿弥陀仏の住する世界です。また親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」と称えてふたごころなく阿弥陀仏に帰命するあり方を「自然(じねん)」と表現しています。自然とは自分のはからいをいれない、自我に基づいた良し悪しのとらわれから離れるあるがままの様です。
 そして地獄は別け隔てのある世界でまさしく私たち人間が住んでいる世界です。人間はそれぞれ思いを持っています。好き嫌い、良し悪し様々です。違う思い同士がぶつかり合えば傷つけ合って争いになります。痛みと苦しみが生まれ絶えない世界を私たちは生きています。
 彼岸と此岸、極楽と地獄、直感のイメージではあの世とこの世、死んだ後の世界と思うかもしれません。普段、日常を過ごす中ではなかなか自分が地獄に生きているなと感じられる瞬間は多くないかもしれません。しかし私たち人間の眼が煩悩で曇っていても、ときに阿弥陀仏の浄土や自然(じねん)のあり方は対照的な私たちの地獄の様相をくっきり明瞭に観えるように気付かせてくれます。そのような今の自分を気付かせてくれる機会が私たちが住んでいる地獄と阿弥陀仏や諸仏の方々がおられる極楽浄土の接点ではないでしょうか。


(筆・釋裕香)

2024年2月の同朋の会

 1月31日に前進座による「花こぶし」を観劇しました。今回は 親鸞聖人関東布教時代の有名なエピソードの一つである「山伏弁円の回心」に触れました。その当時 筑波山の修験者を束ねていた弁円は、人々が親鸞聖人のお念仏に惹かれて山伏弁円らの修験道から遠ざかっていくことに腹を立て、祈禱や呪法で聖人を亡き者にしようとしました。そんな弁円を親鸞聖人は受け入れ、共に念仏をとなえながら歩もうと諭し、弁円は感動して回心したのです。
 弁円の姿から、「人事を尽くして天命を待つ」と「天命に安んじて人事を尽くす」という表現を思い起こし、考えてみました。前者は世間でもよく聞きますね。自分の思いで努力してできるだけの事をして、後は天の命を待つ。天の命とは何でしょうか?人間の力の及ばない何か大きな力、ということでしょうか?でも本当に天の命を待てますか?思い通りの結果が得られたときはよいですが、そうじゃなかったら、どうでしょうか?果たして愚痴はでないと思いますか?
 真宗では、後者です。一見似て見えるように思われるかもしれませんが、意味は全く違います。この場合、天命=本願です。自分の思いではないのです。本願に包まれて、安心して力を尽くす。そして結果がどうであれ、事実を引き受ける事ができる。そんな生活態度でいられたら、どんなに楽でしょうか。


(筆・釋尼育英)

2024年1月の同朋の会

 能登半島地震で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

 今回の同朋の会は能登半島地震をもとに話が進められました。このような自然災害が起こるにつけ、私たち人間の脆さや無力さを痛感します。
 能登地域は真宗王国と聞いています。毎日の朝事を勤め歎異抄にも親しまれているそうです。教えは被災され傷ついた方々にどう響くでしょうか。


 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。
 浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおしふびんとおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々


 親鸞聖人が顕かにされた教えとは、どのような人であってもどのような境遇にあっても安心して人生を尽くしていける、という内容です。
 「念仏成仏是真宗」こういう教えを聞いてきた、被災された方々がどう感じてますでしょうか。私たち真宗門徒は日常に生きている時も、日常が壊された時も念仏の教えに耳をかたむけるほかありません。


(筆・釋尼育英)

2023年12月の同朋の会

 今日は勤行のあと歎異抄第三条を拝読したので、同朋の会前半は三条について触れました。かの有名な「悪人正機(悪人が阿弥陀仏の救済の正機である親鸞聖人の言葉)」について確認しました。
 ここでいう悪人とは自分が真実に背き本願を信ぜざるを得ない存在であると自覚している人のことです。それに対し善人とは自力作善の人のことをいいます。自分の力によって善い行いをすることができると思っている人です。従って善人の為す善には自分の想いが入っており、想いはそれぞれの人間の価値観に左右されますから、不安定なものをあてにしています。自力作善の偽善性が指摘されているところですね。「濁世の道俗、よく己が能を思量せよ」、能=分を分かっているのが悪人ですね。


 後半には副住職からお話がありました。西福寺だよりにて2023年を振り返った記事をもとに話していきました。
 世の中で起きる戦争を筆頭とした悪事は全て自分が正義であると信じ、それを押し通すことで発生します。ネット上における誹謗中傷も然り、自分が正しいと信じ、自分の価値観で自分と異なる人を「ヘイト」という形で徹底的に叩く。当然相手を傷つける上にさまざまな争いが生じます。またネット上での発言は相手を見ず自分も名乗らないことが殆どですからいとも簡単にヘイトが吐き出されます。まさに餓鬼畜生の本性が出て地獄がつくられていきます。
 こういった地獄を地獄だと気付かさせてくれるのが阿弥陀様の浄土です。自分が悪人であるという自覚を持つことが浄土往生の正因です。

(筆・釋尼育英)

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